日々のしおり

内傷病因のお話と、心と体と魂の統合について

活動報告

この記事について

 8月30日に開催しました第21回「自分とつながる呼吸瞑想会」でお話しした内容です。
 撮影機材の不具合で動画をUPできなかったので、この記事を投稿しました。

 皆様、先日は暑い中、わざわざお越しくださいましてありがとうございました。

 今回は、東洋医学の専門家の方を対象にした「鍼道一の会」でお話しした、東洋医学的な病因学──「どうして人は病気になるのか」についてお話しした内容をもとに、こちらでもご紹介したいと思います。

 当日、使用しました資料です。以下の記事の参考になさってください。



病気になる二つの原因

 病気になる原因は、大きく二つに分けられます。

 一つは、外からやってくる外感病因。いわゆる感染症です。これは、これから秋から冬にかけての時期に特に気をつけたいものですので、また別の機会に予防法や対処法をお話ししたいと考えています。

 もう一つは、自分の内側から生じる内傷病因。今回はこちらについてお話しします。

 内傷病因には、主に七情・飲食不節・労逸・房事過多の四つがあります。

  • 七情……感情の過不足、そして長く続く精神的ストレスなどが関係した病です。七情に関する病は意外と多く、ほとんどの病がこの過不足によって起きると言っても過言ではありません。
  • 飲食不節……不適切な食事や飲水のこと。生活の質そのものにも関わってきます。
  • 労逸……働きすぎても病気になりますし、休みすぎても病気になります。この見分け方も、実は奥が深いところです。
  • 房事過多……性生活の過度によるもの。これも、満たされているはずなのにまだ満たされないという、心の欲求と深く関わっています。

 これらについては、「鍼道一の会」のブログで詳しく書いていますので、ご興味のある方はぜひご参考にしてください。

なぜ、お腹がいっぱいなのにまだ食べたくなるのか──「食の偏り」と心の欲求不満

頑張りすぎても、休みすぎても病気になる──「過労」と「安逸」のあいだ

満たされているのに、まだ満たされない──「房事(性生活)」と心の関係

感情は、悪者ではない──「七情」との向き合い方

 これらの記事にも通じることですが、内傷病というのは結局、体と心の状態が大きく関わっているというのが、私の中でのひとつの結論です。

心と体と魂の統合ということ

 さて、ここからは少し私自身の話になります。

 私の人生における一つの大きなテーマとして、心と体と魂の統合ということがあります。心と体と魂が分離している──ここに人の悩みと病があると、私は認識しています。これは、私自身の体験でもあります。

 体は、心と魂、そして個人がおかれた環境と人間関係、家系や自分のカルマなど、ありとあらゆるものとの関係性が表現されます。

 心には、潜在意識と顕在意識があります。潜在意識には、生まれてからのすべての体験が感覚として記憶されていて、環境で生じる出来事に自動的に反応します。これは大変便利な仕組みである一方、ネガティブなことに過剰に反応してしまったり、気がつけば自分の意思とは違う方向に進んでいたりすることもあります。

 これは、「自我」の性質を理解すると納得がいきます。自我は、「個」として生存のために自己防衛する働きを持っています。
 この世に生まれてから、自分の存在を脅かすようなことは潜在意識にインプットされ、生存を脅かす似たようなことが現実に起こると、それを回避しようとしたり、過剰に反応するようになるのです。また、社会のルールや価値観を身につけないことには、社会で生きていくのはとても辛くなります。

 さらに、潜在意識の中に過去のわだかまりや未消化の感情・出来事があると、心と魂の間に雲ができ、分離が生じて、魂からのメッセージを感知できなくなってしまいます。呼吸瞑想は、この雲を祓ってくれるものです。

 自我が脅かされたとき、怒りが生じます。生じた怒りに思考が働くと、心の中の怒りはどんどん大きくなっていきます。心は自分のものですから、大きくなった怒りによって、自分自身がどんどん苦しくなっていきます。
 呼吸瞑想は、その思考の働きを弱め、生じた感情が自然に治まっていくようにいざなってくれるものです。

 赤ん坊や幼児は、神様に最も近いと言われます。お腹が空けば泣き、機嫌のよいときは笑い、感情は水が流れるようにコロコロと入れ替わります。
 一方、自我が育ってくるにつれて社会性は次第に育ってきますが、それと同時に、自分自身の中では心と体と魂の分離も大きくなっていきます。そして自我が大きくなると、他の人・社会・世界との境界線が次第に強化されていきます。ここに、現代人の孤独があるのだろうと私は考えています。

 仏教で「悟り」と言われているものは、自分の内外の境界線がなくなり、自分の魂の感覚を取り戻した状態だと私は推測しています。いわゆる、ワンネスの世界です。

 宗教修行者の書物もたくさん読みましたが、修行者は世間のしがらみを一切捨て、五感からの情報を遮断して、それを得ています。
 一方、私たちは毎月の収入と支払い、煩雑な仕事や喜怒哀楽の波のある日常生活を送っています。
 このような俗世間に生きる私たちにとって、俗世間から離れて生活する修行者が得た悟りの体験は、人生上の参考にはなっても、あまり実際的ではないと感じています。

 私たちもまた、今自分に与えられた成育歴と環境の中で、日々「畳の上での修行」をしているのだと、私はそう考えています。
 日々の生活の中には、喜びや楽しみに生きるための気づきがたくさんあります。その気づきのためには、やはり心と体と魂の統合が大切だと実感していますし、それには呼吸瞑想がとても有効です。

 とりわけ、日々自分の心に起きていることをしっかりと自覚すること。心がモヤモヤとしたときには、気分転換や気晴らしをせず、その不快な感覚をごまかさないことが大切です。
 心がモヤモヤするときというのは、起きた出来事に対して何かを感じているのに、自分で自分に蓋をしている状態なのです。

神道における「罪」と「穢れ」

 日本の神道では、これを「罪」「穢れ」と言います。

 「罪」とは、自分の本心を包み隠すことを指し、本心を包み隠していると気が枯れてくること──これを「穢れ」と言います。
 モヤモヤとした心をあやふやにしたままにしていると、気枯れ、つまり穢れとなって、元気がなくなってきてしまうのです。

 神道では、悪や不浄そのものより、「滞ること」を重く見ます。川のせせらぎのように常に流れていれば、水は濁らず清らかさを保てます。
 心に湧いた負の感情や失敗も、それ自体が問題なのではなく、そこに執着して滞らせてしまうことが、穢れを生むのです。
 東洋医学の聖典「黄帝内経」では、起きた出来事に執着しない、さらりとした恬惔虚無(てんたんきょむ)の心の在り様こそが、病を防ぐ第一条件だと記されています。

 これは、東洋医学の考え方ともよく響き合います。東洋医学では、気の停滞こそが病の原因の中心にあると考えます。
 病気とは、まさに気が病んだ──滞った──状態なのです。神道も東洋医学も、行き着く先は同じところにあるのかもしれません。

一切成就の祓い

 そこで今回ご紹介したいのが、私が毎朝神棚に奏上している「一切成就の祓い」という祝詞です。

 私は毎朝、神棚に祝詞を奏上していますが、神様に何かをしてもらおうとか、神様のお力を借りようとか、そういうことは特に思っていません。
 神棚の前では、改まった心になり、朝は今日一日の始まりに感謝し、今日行うことへの決意を捧げ、夜は一日の終わりを振り返り、自分と向き合って感謝を申し上げます
 さらには、神棚をお祭りしたり神社に参拝するというのは、人と人との関わりと同じようなものだと感じています。すがすがしい人や楽しい人と会うと、私の気もそれに同調して、すがすがしく気持ちよくなる──それと同じ感覚です。
 
 また、私自身が神様の分御霊(わけみたま)なのですから、祝詞を奏上すると、自分の声の振動が全身に伝わり、そして耳を通じて、自分自身の深い魂・神に通じるところへ語りかけることになります。

 これは、私自身の肉体にとっても同じことです。夜になると自然と眠くなり、朝は自然と目が覚める。お腹が空けばご飯を食べ、便意を感じれば排泄をする。このような、自分自身に秘められた自然神の働きに感謝を申し上げるのが、私の信仰です。
 神棚や神前で奏上する祝詞は、そうしたお働きに対する感謝の気持ちと、自分自身の魂への宣言・決意といった感覚で行っています。

 これが、私の神仏に対する信仰の姿勢です。そして、こういったことが、実は自分が生きる上での健康にも、深く影響してくるのだと感じています。

 「一切成就の祓い」の原文や、一言一言の意味の解説については、冒頭の資料にまとめてありますので、ぜひご覧ください。

心と向き合うということ

 「一切成就の祓い」は、「祈り」というよりも、むしろ宣言文です。心に何かひっかかりを感じたときは、それをごまかさず、ただ感じること。気晴らしをして紛らわせるのではなく、です。

 神道でいう「罪」とは、自分の本心を隠すことでした。そして、思考が働くときというのは、多くの場合、自分を守ろうとしているときです。腹が立ったとき、とくに「自分は被害者だ」と感じたとき──思考が多く働けば働くほど、怒りは大きくなっていきます。

 だからこそ、生じた自分の気持ちは思考を働かせず、抑えつけず、収まるのを待つこと。避けようとしないこと。身体の症状についても、同じように、収まるのを待つことが必要な場合があるのかもしれません。

 そして、自分の問題と相手の問題を分けること。相手のことに気を遣いすぎると、自分の気が枯れてしまいます。

 瞑想とは、自分の心と向き合い、自分の心を観察することです。自分の中には、観察する者と、観察される者とが存在します。例えば怒りに飲み込まれて我を忘れてしまった時は、観察者がいない状態です。
 そのことに気が付いたら呼吸に意識を向けると観察者が意識でき、怒っている自分を客観的に見ることができるようになります。

 そして呼吸法が追求しているのは、「気持ちよさ」です。呼吸によって身体の中に「気」が巡ると、お腹の底に収めていた感情なども、自然と出てきます。
 そうして、すべてを流していく。東洋医学では、潜在意識は腹(ハラ)にあると考えます。また日本は腹(ハラ)の文化でもあります。(ご興味のある方は、下記リンクをご覧ください)

感情の病 ー 病は気からの医学②

 心と体と魂の統合──それは、日々の呼吸のなかに、静かに息づいているものなのだと思います。

 次回は、12月13日開催の予定です。詳しくは下記をご覧ください。

 「自分とつながる呼吸瞑想会」のご案内

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