この記事について
本記事は、鍼道 一の会の基礎医学講座「病因」での議論をもとに構成しています。「動きすぎ」も「動かなさすぎ」も、病気のもと
東洋医学では、健康を保つために「適度な運動」と「適度な休養」が必要だと考えます。そして、そのどちらの側に偏っても、病気の原因になるとされています。
過労
労働や運動による肉体的な疲労が積み重なり、気血・精が消耗していく状態です。それが長時間にわたって続いたり、適切に休養が取れなかったりすると悪化し、倦怠感・無力感・痩せなどの症状が出やすくなります。
安逸
逆に、長期にわたって体を動かさない状態が続くこと。生活の巡りが滞り、気血の流れが阻害されて、痰湿(体に溜まった余分な水分や老廃物)などを生じやすくなります。
思いつめることがあったり、失望によって部屋に閉じこもるようになったりすると、この痰湿が気血の流れを阻むため、身体のだるさだけでなく、心も億劫になり、何もしたくなくなる傾向が強まります。
場合によっては悪循環に陥り、そこから抜け出すのが困難になることもあります。
「働きすぎは体に悪い」というのは、多くの方が実感として理解されていると思います。一方で「休みすぎもまた病気の原因になる」というのは、意外に感じる方もいらっしゃるかもしれません。
今回は、この「過労」と「安逸」のあいだで、私たちがどう自分の状態を見極めればいいのか、という話をしたいと思います。
「適度」は、自分の身体感覚で測るもの
適度な運動というのは、体を動かした後にすっきりするところで止めておくこと。疲れたとしても、心地よく感じる疲れ方が適度の範囲です。やりすぎて食欲が落ちたり動けなくなるほど疲弊してしまうまでやるのは、もうそれは「適度」を超えています。
東洋医学には「肝は罷極(ひきょく)の本」という言葉があります。「罷極」とは、体がだらんと弛緩して伸びきってしまうような状態を指します。
無理を承知のうえで、その無理を懸命に支えているのが、肝の働きなのです。つまり、頑張りすぎるということは、この肝の力を酷使し、気血・精を消耗させ続けているということでもあります。
休養についても同じことが言えます。休んだあとに元気が出て、やる気が満ちてくるのであれば、それは適切な休養です。ところが、休めば休むほど体がだるくなり、動きたくなくなる――そんなときは、実は「休みすぎ」のサインかもしれません。
しんどいけれどあえて体を少し動かしてみて、それでかえってすっきりするようなら、休みすぎていた可能性がある。逆に、動かしてもっとしんどくなるなら、それはさらに休息が必要な状態です。
結局のところ、「適度」を測る基準は数字や時間ではなく、そのときどきの自分の身体感覚だ、ということになります。
「やめたら元に戻る」という強迫観念
最近よく話題になる筋トレブームでも、「日本人は頑張りすぎる傾向がある」と言われることがあります。
一度鍛えたら、少しでも休むとまた元に戻ってしまうのではないか――そんな強迫観念から、心も体も「しんどい、休みたい」と訴えているのに、無理をして続けてしまう人が少なくありません。
本来、「もうやりたくない」という気持ちは、体からの正直な休息のサインです。ところが、それを押し切って頑張り続けた結果、かえってオーバートレーニングになり、効率を落としてしまっているケースが多いとも言われています。
ヨガやストレッチも同様で、「続けないとまた体が固くなるのではないか」という不安と恐れから、今日はゆっくりしたい気分のときでも、つい体を動かしてしまう。
労働も運動も、本来は喜びとともに行うものであり、休むときも自分の身体感覚を感じながら休めるのが理想です。
しかし、ローンの支払いや仕事のノルマ、年間スケジュールなど、そう単純にはいかない事情を抱えている方も多いでしょう。心と体が「喜ぶように」ばかりはいかない、鞭を打たれるような感覚で日々を過ごしている方も、少なくないのではないでしょうか。
「体は休まっても、心が休まらない」
自営で商売をされている、ある四十代の患者さんは、高血圧を伴う逆流性食道炎で来院されました。
話を伺っていくと、忙しいときはくたくたに疲れ、逆に暇なときには「やれやれ」と思う反面、今月の支払いのことなどを考えて不安になり、なかなか心が休まらないとおっしゃっていました。
体は休んでいても、頭や心はずっと働き続けている――心身ともに過労、というのはこういう状態を指すのだろうと感じたケースでした。
また別の患者さんで、大きな仕事の契約を控え、常に「前へ前へ」と全力で走り続けている、非常に成功されている方もいらっしゃいます。すでに社会的にも経済的にも十分な実績があるにもかかわらず、毎晩のように予定が入り、休みの日も予定を詰め込んで飛び回っている。
なぜそこまで自分を追い込むのだろうと感じる一方で、その方からは、はっきりとした不安や焦りは、あまり感じられませんでした。何かを失うことへの恐れなのか、成長し続けなければというプレッシャーを自分自身にかけているのか――本当のところは、ご本人にも分からないのかもしれませんが、時に突発的な症状で動けなくなり、SOSを送ってこられます。
以前診させていただいたある方も、「ずっと成長し続けなければならない」と口にされていました。すでに十分すぎるほどの社会的名声と実績を持ちながら、いつも自分を駆り立てている。
高いところを飛んでいる人は、その高さを維持するために全力で羽ばたき続けなければならず、低空を飛んでいる人は、地面に落ちないように必死になる。
結局、どの高さにいても、なかなか「安心」というものは手に入らないものなのかもしれない――そんなふうに感じました。一体、現代人の安心と救いは、どこにあるのだろうと思ってしまいます。
頑張り続ける背景にあるもの
過労も、これまでお話ししてきた「食の偏り」と、実はよく似た構造を持っています。
頑張りすぎる背景には、「休んだら評価が下がるのではないか」「今の状態を維持できなくなるのではないか」といった、本人も気づいていないかもしれない不安が隠れていることが少なくありません。
逆に、安逸(動かなさすぎ)の背景にも、「動く意味を見出せない」「そもそも喜びを感じにくい」といった、別の種類の心の状態が隠れていることがあります。
「頑張りすぎ」も「休みすぎ」も、心身からのサインという意味では同じです。大切なのは、そのサインを無視して数字やスケジュールに自分を合わせ続けるのではなく、「今、自分は何を求めているか」「本当は、何をどうしたいのか」――そして「自分軸で生きるのか、社会・他人軸で生きるのか」ということに、耳を傾けることだと思います。
現代人にとって、ふだんから自分自身と向き合う習慣を持つことは、とても大切なことだと感じます。
終わりに
このような、病の背景にある患者さんの人生上の問題に、自分自身の問題をも抱えた治療者として、どこまで理解し、共感しながら治療を進めるのか。
そして病を治すというだけでなく、患者さんの人生そのものが納得のいく充実した人生へと歩みを進めていく伴走者・サポートとしての役割を担うのが、東洋医学の治療者本来の役割ではないでしょうか。

金剛山 国見城址から眺める大阪湾




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