日々のしおり

自分の人生って? ー リセット

よもやま話

この記事について

 一見すると、自分の身に起きた不幸なことから、豊かな人生を送るための種を見つけたかのような感覚です。
 自分を生きることは、人と共に平和で豊かに生きることだと思い至った次第です。

 みなさま、お久しぶりです。

 実はこのところ、考えることも、本を読むことも出来ずにボーっと過ごしてまして(仕事以外でですよっ。笑)、あっという間に今日の日に至った、という感覚です。笑

 前回の投稿、「娑婆に還俗」の最後に書きました「自分の人生」をするためのリセットとして、今回の事故が起きたことを書きました。

 筆者のこれまでの人生を振り返ると、病気や今回のような大きなケガは、大きな人生の転換期となることが多かったのです。

 今回の事故もそうでして、たまたまとか偶然に起きたこととして済ますことのできない何かが、自分の中でくすぶったのです。

 事故現場を最初に見に行った時に、「これは自殺だったんだな」って思いが自分の中から湧いてきまして、自分で自分に驚きました。

 冗談じゃないでっ! って。

 自分が自分にゾッとしたんですね。

 そこからですよ、なんで死のうとしていたのか。

 そして、死のうとしてたのは、自分の中の誰なのかを。

 罪悪感と自己肯定感の欠如

 結論から言いますと死のうとしてたのは、子供のころから親の望むような生き方をしようと大人になるまで、ずっと頑張ってきた自分だったのですね。

 そのままなのですが、意識には上ってないことだったのです。(気がつかなかったわぁ~ 笑)

 このあたりのことは、過去ブログ「ほ~、罪悪感かいな(笑)」で書いた通りです。

 ですが、現実は親の望んだような生き方をしていない。

 今の鍼の道に入ったのも、親には大反対されてのことでした。

 だからこそ、この道で一人前になって親に認めてもらいたいと思って、がむしゃらにこの道を歩んできたのですね。

 両親は、とっくに他界しているにも関わらずです。

 こういったことは普段の意識には上ってこないで、筆者の心の奥底でいつも行動エネルギーの源になっていたのですね。

 ところが、やってもやっても、頑張って一生懸命になっても、埋まらない何か。

 社会や他者に対する承認欲求が、ある程度満たされても、埋まらない何か。

 これが無力感、絶望感、無価値観にまでつながったのでしょう、今回の事故を引き起こすことになってしまったと、自分で結論付けたのです。

エネルギー源の喪失

 事故を起こしてから、家族を始め、周囲の人たちに自分がいったいどれだけ大事に思われていたか、されていたのかを本当に切実に感じました。

 それにもかかわらず、筆者のエネルギー源が、親の承認欲求からのものであると実感として分かってから、じゃあ、これから何をエネルギー源にして生きて行けば良いのか分からなくなったのですね。

 家族のためとかですねぇ、お金とかね(笑)、とにかく何かのために生きることが出来なくなってしまったのです。

 ですから、事故後、なんか物事に対して意欲が湧かないというか、新しいことを始める意欲が無いというか、当然そうなりますよね。

 宙ぶらりん

 こんな表現がぴったりな感じです。

 まさに、デッドゾーンに入ってしまったのですね。 笑

救いはあるけれど…

 いつも笑顔で居てくれる妻であるとか、「行ってきま~す!」「ただいまぁ~!」って、いつも元気な娘の声を耳に目にするたびに、なんか救われるような気持になります。

 おかげさまで、家庭生活はいたって平穏です。なんの不足もございません。 笑

 何かのために生きられないとしたら… あとは自分のために生きる事しか残ってないですよねぇ、簡単な理屈です。

 自分のために生きる

 やっとそこに気が付いて、人生のリセットだなぁと感じたわけです。

 自分のために生きる

 自分のために生きるって、そんな急に思い立っても…と、まだ戸惑ってるのが現状でして、自分を喜ばしたろと思っても、なにをすれば自分が喜ぶのか、分からん。笑

 そら、遊びはたくさん知ってますし、やるとそれなりに楽しいのですが、もうひとつ出汁(ダシ)が足りないというか…

 そして気が付いたのが、身近な人やご縁のある方が、元気でうれしそうだったら、自分もうれしいってことです。

 自分と関係するする人や物事が、平和で元気で楽しそうだったら、それが関わる自分にとっては喜びになると発見!?したのですねぇ。

 自分が何か行動することで、人に喜んでもらえると自分が元気になる。

 おそらく、ほとんどの方がこのようなことは、体験済みだと思います。

 では、今の仕事は?

 それなりにやりがいもありますし、良くなって下さるととてもうれしいです。

 ですが、時に結果を出さなくってはと、プレッシャーになることも度々あります。

 それに、責任と自己評価。

 勝手に自分がしょい込んでるのかもしれませんが、そもそも病が治るか治らないかは、筆者ひとりが決めることでは無いのにもかかわらず、です。

 でも、お相手の方の期待に応えなくてはと、つい背負い込んでしまうのですね。

 「応えなくては」というのを「応えたい」になれると良いですね。

 言葉ではちょっとの違いでも、心の負担は大きく違ってきますよね。

 そして結果と自己評価を結びつけない。

 これも大事なことだと思います。

 自分を生きるためにも、人に良くなってもらいたい。

 こうなると自他の区別が曖昧になりますよね。

 自分のため? 人のため?

 このあたりは、もうあまり考えず感覚で良いのでないかなと思います。

 要は、自分が快と感じることが出来れば良いのですから。(と、思ってます。笑)

 

 このように書いてましても、時にイラッとしたりムッとすることもあります。

 そんな時こそ、自分と向き合うチャンスだと思ってます。

 いろんなケースがあると思いますが、相手との違いを尊重できなかったり、自分の思惑と違っている場合が多々あります。笑

 要は、我執によって自分で自分を苦しめている時ですね。💦

 でもね、せっかく痛い目(笑)して気がついて、人生をリセットしたのですから、これからこのパターンで徐々にエネルギー源を太く大きくして行きますね。笑

最後に

 筆者は、今年63歳になるのですが、この年齢になっても、育った環境や親との関係が現在の自分に色濃く反映されてることを身に染みて感じました。

 もう少し長く観れば、家系の流れというものも視野に入ってきますね。

 家系の流れという視点に立てば、魂の進化の最前列に今自分が立ってることになります。

 延々と続いてきた命の源に繋がるご先祖様は、自分の中にも居ますので、自分が幸せになるとご先祖様もみんな幸せになります。

 そら、みなさま、こぞって応援してくれるでしょう。

 だから、筆者は事故で命を拾えたのだと感じています。

 自分が平和で元気になる。

 これに勝る先祖供養は無いと思ってます。

 自分が良くなると周囲も良くなる。

 周囲が良くなると自分も良くなる。

 まさに陰陽ですねぇ。

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