この記事について
大自然の子供である人間が、健やかな人生をおくる心のありようを、東洋医学の根底を流れる思想を元に書いてみました。自分の心と身体に起きたことには、豊かに生きるヒントがたくさんあります。
過去の投稿「そもそも元気とは ー 病気の対語」では、元気とは生命エネルギーそのものであるとご説明いたしました。
そして前回は「生きる力の元 - 元気」では、身体は心の写し鏡のようなものであると書いて参りました。
東洋医学では、古来より「心と身体はひとつ」と言われてますが、ともすれば身体面の病気を治すことに偏っているきらいがあります。
前回ブログでも触れましたように、東洋医学の医学専門書には、生命エネルギーがはつらつと輝くような状態になるその人の在り様については、恬惔虚無(てんたんきょむ)とだけ記されています。
心の状態が、恬惔虚無(てんたんきょむ)であれば、全身に元気が満ち溢れ、外からやって来る細菌やウイルスは、その身体を侵すことが出来ないばかりか、身体の内側から病が起こることも無いのだと書き記されています。
東洋医学書では心を扱わない?
その恬惔虚無 (てんたんきょむ) については、医学書には詳しく記されていないのです。
その理由のひとつとして東洋医学は、道教という大きなジャンルの中のひとつのジャンルとして位置づけられていますので、医学書ではもっぱら身体の病について書かれていまして、心の状態に関しては他のジャンル(老子・荘子)に求める必要があるのです。
恬惔虚無 (てんたんきょむ )とは
文字の意味そのものは、無欲で心も気持ちもあっさりして、物や事に執着せず心が安らかなことであると一般的に解釈されているようです。
ですが、意味としては分かっても、具体的にはどうすればいいの?って思われませんか。
この恬惔虚無(てんたんきょむ) に関して、筆者なりに思うところを書いてみたいと思います。
それは、「為さずして成す」という事です。
望みや欲をもってシャカリキになって行動しなくとも、物事は天の計らいで成るように為るというのが筆者流の考えです。
なんかまるで悟ったかのような恰好の良いこと書いてますが、たぶんに老子の影響を受けてます。笑
神道では、惟神(かんながら)という思想がありますね。
さらに告白しますと、ほとんどできません。笑
ですがね、本来は 「成るように為る」のでしょうが、最初に「こう成ればいい」とか「こう成りたい」とかって期待や欲求が強ければ強いほど、自分の 期待や欲求 から外れたときには落胆したり怒りが湧いたりと、心が大きく波立ちます。
これに反して、以下のような有名な言葉が残されています。
「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」
これは江戸後期、米沢藩主・上杉鷹山が家臣に詠み与えたことで、あまりにも有名です。
ですが筆者は、自分で自分に鞭打つ言葉のように聞こえるのです。
それに事が成るか成らないかは、個人の努力を越えた力が作用することが多分にあります。
ここに、謙虚さがあれば良いのですが…
かつて筆者も、「やればできる!」という言葉に、どれだけ自分を縛って苦しんできたことか… 笑
では、何もしないでただ指をくわえて人生の景色を眺めていればいいのでしょうか?
老子はその著書「道徳経」 では、しきりに「無為」という言葉を使っています。
その意味は、何もしないという事では無く、自分の欲や主観を自覚して、天地自然の大きな流れ・働きに身を任せなさいという事だと思うのです。
ちなみに、この天地自然の大きな流れ・働きを「道(どう・タオ)」というのですね。
こうなってきますと、恬惔虚無 (てんたんきょむ)の意味するところは理解できても、実際に日常生活の中で実践していくのは、なかなか難しいなぁと筆者は感じてしまいます。
もちろん、病気になってしまった時もです。
ご自身に気づくチャンスは、その時にあると思います。
ちなみに、鍼道一の会ブログで、大上先生が以下のようなことを書いておりますので、ご参考になさって下さればと思います。
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