本日11日は、成人の日なのですね。
大変な世相ですが、成人式をお迎えの方々、おめでとうございます。
そして今日は鏡開きの日でもありますね。
年神様のご神気を頂いて、今年一年、無病息災を願いつつお餅を頂きたいと思います。
さて、「場の気」に関していろいろと思いを巡らせていました。
きっかけは仕事始めの時に気が付いた筆者の身体の変化でした。
「場の気」の違いは、土地の気とそこに出入りする人の意識によって複合的に形成されるものですよね。
「場の気」を作る大きな要因が人の意識ならば、逆に「場の気」が人の意識に働きかけることもありますねぇ。
筆者は、教員養成科に週1回講義に赴いているのですが、以前、学科長からこんなお話をお伺いしました。
社会に出て立派にやってた先生が、入学してくるといつの間にか学生になるのですよ、って。
学校では当然、授業があるのですが授業の「授」って「さずける」って訓読みするじゃないですか。
「さずける」って、筆者はどうしても上から下へという方向性を感じるのですね。
するとどうしても、受け身的な意識になってしまうと思うのです。
ですので、学校という場は、与えられたことを一生懸命学ぶ場としては適していますね。
ところが、自らの道を求めて学ぼうとすると、やはり学校を卒業してからになると思うのです。
治療所もそうですよね。
みなさま、病を治すためにお越しになられるのですが、やはり「治療を受ける」って意識になられると同時に、筆者もまた「治療を施す」という意識になります。
なんか上下が意識されません?
このような意識で形成された「場の気」の中に入れば、筆者は意識することなく自然にそれらしく振舞ってしまうことになります。
ありていに言えば、先生らしく振舞うということです。
ところが家庭に入れば、そこは共に楽しく楽に生活しようやないかという意識の「場の気」がある訳ですね。
するとね、治療所では先生でも、家に帰ればどこにでも居る、ちょっとだらしない?ふつ~の酒好きのおっさんなわけですよね。
そこに身体は正直に反応したってことですよね。(笑)
まあたいそうに書いてますが、簡単なことですよね。💦
ただね、こう書いててハタっと気が付いたことは、筆者、治療所では先生らしく振舞ってしまうのですから、来院される方も患者さんらしく(病人らしく)自然に振舞ってしまうということになりますね。
治療する側とされる側。
この双方の気の交流を、意識的に変えていくと治療する側される側の境界が無くなり、互いによりよくなっていく道があるのでは、と思うようになってきました。
これは双方の「生き方」にかかわってくるだろうと思います。
一般的な「治療」という概念の枠組みを、いやいや筆者自身にしみついてる概念を取り壊す必要性を迫られてるような感じです。
そして関係性の再構築ですね。
さて、具体的にどうしましょうかねぇ。
まっ、流れに任せて、なにか浮かんできましたらまた書きますね。
さて、世はコロナで騒がしいですが、やるべき対策をやった後は、
過不足なくおいしくご飯を食べて
夜は気持ちよくぐっすりと寝て
心は和やかに楽しみと喜びへと運んで参りましょう。
自分が明るく元気に今日一日過ごせば、これも立派な社会貢献。
みなさま、いつもありがとうございます。
また書きますねっ。
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