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そこには、誰しもが持っている「存在に対する不安」があるからだと思うのです。
人に認めてもらいたい、受け入れてもらいたい、人に評価してもらいたい・・・
誰だって持ってる欲求ですよね。
自分を、周囲の人に受け入れてもらう・認めてもらう事で、自分の存在を確認しようとしませんでしょうか。
ところがです、人はそれぞれ同じものを見ても、心に映るものは異なるのですよね。
ということは、人の評価は、あまりあてにならないということにならないでしょうか。
恋愛なんて、まさにそうだと思うのですよ。
自分は相手を素敵だと感じ、受け入れてもらいたいと思っても、すんなり受け入れてくれるとは限らないじゃないですか。
拒否されると、そりゃ感情の嵐も吹き荒れようものです。
思考もMaxになります。
この感情の嵐は、時間と共に次第に治まって行くものです。
そのことに執着して、思考を深めなければの話ですが・・・
若き頃の筆者にも、覚えがあります。
失恋すると、この世の終わりのように思うのですよね。
ですが、この世は終わりません。
相手に対する、こころの執着を手放すと、こころの嵐も治まり、次が始まるのですよねぇ。
我ながら、たくましいなぁと思います。
このように自分のこころが常に周囲に翻弄されるこころの在り様って、自分の存在を外に求めるからなんですよね。
筆者にとっての友人って、互いに認め受け入れる関係で成り立っていると思います。
でも、これって錯覚かもしれませんが、悟っていないものにとっては自然なことだと思うんですよね。
でも、悟っていなくっても、自分の中の執着にハッと気が付いて手放せると、楽になるのですよねぇ、これが。
植木等じゃないですが、「わかっちゃいるけど、やめられない・・・」
これには、少し時間がかかっても良いと思います。
ちなみに、植木等のお父様は禅僧で、息子の「スーダラ節」を聞いて、「あいつは悟っている」とつぶやいたとかなんとか・・・
こころって、周囲に・環境に翻弄されるものなのでしょうか。
少なくとも筆者は、そう考えておいた方がいいんじゃないかなと思ってます。
なぜなら、自分のこころでありながら、制御不能になることがあまりに多いからです。
しかしどれだけこころが揺れて、乱れて荒れ狂っても、元に戻るには大切なことがあります。
それが自己肯定感だと思うのです。
自己肯定感は、こころのアンカー。
この方、幼少のころから親に褒められたことが無く、むしろ否定的なことが多かったと話されました。
本当のところは、分かりません。
ご本人が、そう思い込んでいただけかもしれません。
でもはっきりしていることは、無意識に外に承認を求めていたと、ご自分で気が付かれたことです。
まっ、どちらにしても、これからはどんな自分であっても、自分で自分を肯定して行くことが課題ですねと言う事で、会話は終了。
そして最後に、人に対して哀れみではなく、「慈しみのこころ」が持てるようになりますと、言い残して帰られました。
なんとご聡明な、ご自身で完結されました・・・めまいがしそうでした。
ん~、筆者も、自己肯定感を養わなくては・・・
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