遠景と近景 織り成す神々の山 金剛山より |
「一の会」で行っています呼吸瞑想を、日課として行いながら通院くださってる方から。
『物事を隠そうとか、取り繕おうとするよりも、素直に正直に表現して相手の意見や思いを聞こうとしてみたら、自分が恐れていた相手から意外と好意的な気が返ってきた。』
・・・とまあ、うれしい気づきを伝えてくださった人がいらっしゃいましてね。
勇気をもって、これまでとは違う行動をされたのです。これって、ホントすごいことですよね。
人は、犯した過ちは赦しても、隠そうとする気に対しては、決して赦さないものだと筆者は思ってます。
さらにこの方、先日お墓参りに行ったとき、無性に近くの神社に行きたくなって、ご神体のイワクラまで一心に駆け上って降りてきたところ、それこそ全身の震えが止まらなくなって・・・と。
これは『一の会』で試みたけど出なかった「自発運動なのでは・・・」と思い、しばらくそのままにして自分を感じていると自然に治まったそうです。
それ以来、不思議と全身の関節痛と朝の手の関節のこわばりが出なくなったとのこと。
これ、宗教的には「霊動」と言うんでしょうね。
「霊動」などといえばたいそうな感じがしますが、ちょっとしたコツさえ覚えれば、意外と簡単に起きることなのです。
現代社会に生きていると、知らず知らずの間に気が鬱積するんですよね。それはあたかも、輪ゴムをねじったまま止めているようなものです。
この’巻き戻し’が一気に起きると、あたかも神が乗り移ったかのように勝手に言葉が出たり、体が動いたりすることが実際にあるのです。これ、精神病との鑑別が必要なのですが。
この小さなよじれが積もり積もると、大きなよじれとなり、いわゆる『穢れ=気枯れ』を起こして病となってしまいます。
さしずめ世間的な言葉を用いれば、ストレスということになります。
が、このストレスという言葉、なんとも安易に浅薄にしか用いられていないですね。
なんでもかんでも、訳の分からないものは「ストレスじゃない?」って、ストレスラベルをつけたらもう解決したかのような気分。
東洋医学では「気滞」と称しますが、「気滞」と認識すれば、同様にもう解決したかのような気になってる人のなんと多いことか。
「気滞」を起こす真の原因を見つけ出して解決するのって、治療者、患者双方にとって至難の業ですよ。互いに魂のヒダに分け入るくらいの意識が必要です。
「気」を扱うものからすると、見過ごせない点です。
岸和田のだんじりや灘のけんか祭りなどはこのような観点から見ると、伝統的な祭りが上手く機能しているんだろうなって思います。
「気滞」の原因解決なんてどうでも良い。日ごろの鬱積を、祭りという行事で一気に解放するんですよね。
ある程度、固定的な社会であれば、それでよかったのだと思います。
ところが価値観や様式変化が速い現代においては、軸になるものをしっかりと自分の中に感じていないと、振り回されて「気滞」満載の状態になってしまいがちです。
だからこそ瞑想のような方法を用いて、日常的に自分と向き合うことが非常に重要な意味を持って来るのです。
ところで、神社には必ず鏡がありますよね。この鏡、参拝者自身を映すためなのでしょうね。
どこの家庭にもある鏡に自分を映すように、心の鏡にありのままの自分をじっくり映し出して向き合うことも大切なこと。
穢れ=気枯れ
この意味は、深いなと感じます。またまだ語りつくせないものがあるように感じます。
皆様は、いかが感じられるでしょうか。
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