この記事について
本記事は、鍼道 一の会の基礎医学講座「病因」での議論をもとに構成しています。一の会の基礎医学講座では、ずっと七情(怒り・喜び・思う・悲しみ・憂・驚き・恐れ)というテーマを扱っています。前回までで怒りと喜びについて話しましたので、今回はその続き、「思う」についてまとめてみようと思います。
「思う」は感情なのか
正直なところ、講座でもこの問いにみんなでしばらく悩みました。怒りや喜びは、パッと湧いてくる感じがはっきりしています。でも「思う」は、どちらかというと思考に近い。感情と呼んでいいものかどうか。
東洋医学では、「思う」は五行でいう土、五臓でいうと脾(ひ)に配当されています。脾には、物事を成長させたり変化させたりする働きがあります。何かが起きたとき、その出来事に意味をつけようとする。理解しようとする。それが「思う」という心の動きなのだと思います。
役割としては、情報を整理して、選択や判断につなげること。経験から学び、より良い行動を見つける助けになること。ここまでは、とてもいい働きです。
問題は、これが行き過ぎたときです。「思う」が過剰になると、気が結んでしまう。東洋医学でいう「気滞(きたい)」です。結ばれた気は流れなくなり、そこに滞りが生まれます。これが、期待や執着というかたちで私たちを縛っていくのだと思います。
「思う」が病になるとき
正常な「思う」――出来事に意味をつけよう、理解しようとする「思う」――は、生きていくうえで欠かせないものです。問題は、そこから一歩踏み込んで、間違った意味づけをしてしまうこと。以前、怒りの回でもお話しした「認知の歪み」が、ここでも関わってきます。
起きた出来事を、自分の思い込みというフィルターを通して受け取ってしまう。それが積み重なると、「思う」という自然な働きが、いつのまにか病的なものに変わっていきます。
臨床でよく感じるのは、この間違った意味づけの根っこには、「善悪」や「正しい・間違い」というジャッジがあるということです。「これは私にとって快か不快か」というものさしを、どんどん広げていく。すると、認知の歪みも一緒に大きくなっていきます。
以前、ある方から夫婦間のやりとりについて相談を受けたことがあります。理屈で「お前はこうだからこうなる、だからこうするべきだ」と畳みかけられると、反論もできず、ただ苦しくなってしまうというお話でした。正しさで人を追い詰めることは、実はとても暴力的なことなのだと、そのとき改めて感じました。
自分の体験からも思うのですが、認知の歪みを大きくしていくことは、結局のところ自分で自分の首を絞めるようなものです。
「思う」と「考える」は違う
講座で興味深かったのが、「思う」と「考える」を分けて捉える視点です。
「思う」は、ふっと浮かんでくる。イメージが出てくる。動きのない、静かな心の動きです。それ自体が病的な方向に行くというより、そこから先の「考える」の使い方に、健全さと不健全さの分かれ目があるように思います。
「考える」の良いところは、湧いてきた欲求や思いを現実化する力になることです。「山に登りたい」と思っただけでは、山の入り口には立てません。気温を考え、装備を考え、出発時間を考える。この「考える」があるから、私たちはいろいろなものを築いてこられたのだと思います。
一方で、「考える」が過剰になり、答えの出ない堂々巡りに入ってしまうことがあります。相手がどういうつもりでああ言ったのか。結果がどうなるか。考えても考えても分からないことを、それでも考え続けてしまう。これが、気が「結ぶ」という状態です。紐をぎゅっと結んでしまって、そこから抜け出せなくなる。
こういうとき、「今、何のために考えているのか」を意識してみることが助けになります。自分を正当化したいのか、楽しいことを実現したいのか。目的がはっきりすれば、遠回りをせずに、その目的に向かって最短距離を進めばいい。答えの出ないところをぐるぐる回り続けるより、ずっと省エネになります。
かつて診させていただいた方の中に、職場での嫌なことがあると思考がどんどん回ってしんどくなるので、読書をして思考が働かないようにしていますと。考えることから距離を置く、というのも一つの知恵だと思います。
私自身は、そういうときはむしろ山に登ります。息が上がっているあいだは、余計なことを考える余裕がなくなる。頂上で呼吸が落ち着いたとき、ふっと頭の中の未消化なものが消え、問題としていたことがどうでもいい、軽微なことに変化する感覚があります。
執着しやすい体質、という視点
講座では、体質的な話も出ました。脾の気質に偏った方は、湿気をため込みやすく、思考も「ねっちり」しやすい傾向があるのではないか、という指摘です。理解や意味づけに向かうポジティブな思考というより、執着のある、粘りつくような思考になりやすいのではないか、と。
体質と性格、体質と思考の癖はつながっている。これは臨床でも実感することが多く、とても興味深い視点でした。
視点を変えるという処方箋
「思う」のループから抜け出す方法として、講座では「視点を変える」という話が繰り返し出てきました。
ぐるぐる考え続けている患者さんに対して、新しい視点を提示してあげる。それだけで、一旦その渦から離れられることがあります。
「自分が悪いのかな」「相手が悪いのかな」と行き来している思考に、たとえば「今日はたまたま天気のせいかもしれませんね」という、まったく別の物差しを差し込んでみる。すると、誰かを犯人にしなくても済む。自分も悪くない、相手も悪くない、という場所に一旦着地できる。
これは東洋医学の古典にある「移精変気(いせいへんき)」という考え方に近いものです。気持ちの焦点をふっと転じることで、問題そのものから少し距離を取る。距離が取れると、気の流れも変わって来ます。
大切なのは、これは答えを与えることとは違う、ということです。解決策を差し出しても、本人がその混乱を自分の力で乗り越えたことにはなりません。
むしろ、ただ話を聞いてほしい、安全な場所に一旦身を置きたい、という方も多くいらっしゃいます。パニックになっている人に必要なのは、まず「ここにいても大丈夫」という安全地帯であって、正論ではないのだと思います。
おわりに
「思う」は、私たちが生きていくうえで欠かせない働きです。出来事に意味をつけ、備え、学び、次の行動につなげていく。その一方で、行き過ぎれば気を結び、認知を歪ませ、私たちを苦しめる側にも回ります。
唯一の救いは、七情の中でもこの「思う」だけは、自分で意識的に止めることができるという点かもしれません。怒りも喜びも悲しみも恐れも、湧き上がってくるのは自然なことですし、生理現象です。
でも「思う」だけは、意味づけをやめる、観察に徹する、と決めた瞬間からコントロールが利く。どのモードで「思う」を使うかは、私たち自身が選べるのだと思います。
次回第6回基礎医学講座では、この「思う」の隣にある「憂(うれい)」について論議する予定です。。
※本記事に登場する事例は、いずれも複数の症例を組み合わせ、個人が特定されないよう再構成しています。

大峰山(山上ヶ岳)西野覗きからの景色




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