ブログ「鍼道 一の会」

経絡学(1) 経絡は存在するか

 経絡についての解説は、ほぼ語りつくされているのではないでしょうか。

 にもかかわらず、何を書こうとしているのか。

 思うままに書いてみます。

 筆者の場合、実際の臨床で経絡の存在を意識して臨床を行う場合もあり、そうでない場合もあります。

 経絡とは、手足と臓腑の間を結ぶ気血流れるルートで、それぞれ一定の方向性と関係性があると考えられています。

 これ、本当なのでしょうか。

 いまさならながらですが、たくさんの疑問が生じています。

 物質を素粒子レベルにまで高度に分析・認識する方法を持ちえた現代において、未だ経絡の存在が科学的に立証できないというのも、誠に不思議と言えば不思議と思われませんでしょうか。

 しかし経絡が科学的に立証されていなくとも、現存する経絡概念を用いてあらゆる病を治してきたという歴史的事実が厳として存在しています。

 にもかかわらず、われわれ鍼灸師の立場からして、経絡が確かに存在すると、万人に説得力を持って言い切れますでしょうか。

 経絡の存在を信じる人は信じる。

 信じない人は信じない。

 実際、いろんな方々がいらっしゃるのではないでしょうか。

 

 人体という対象は、本来のありようとしては混沌としたものです。

 逆に言えば混沌とした世界は、その人が見たいように観ることができます。

 筆者はその混沌に、経絡という太極を立てて認識しようとしたのが、経絡学だと考えています。

 実際、世界の民族医学で経絡概念を持たずに実用に耐えている医学は数多く存在しています。

 結論から述べると経絡は、身体を観る人間の意識の中だけに存在する、形而上の概念でなのではないでしょうか。

 つまり経絡概念を持ち得ない人が、どれだけ人体を精密に調べても経絡は存在せず、経絡概念を持ち得ている人のみが、実際に人に触れて経絡の存在を確かに実感することができるということです。

 このように考えると、古典を尊重し立脚しつつも、古典を至上としてその概念にとらわれずに、自由な発想のもとに経絡を運用しても良いのではないか。

 『一の会』では、このような考え方で経絡学を進めています。

 

 さらに直截に言うと経絡は、物的なものではないということです。

 地球の赤道の存在は、常識的なことです。

 だからと言って、物質として地球をどれだけ精密に調べても赤道は見つからないのと同じことです。

 全く異なる視点を持つことが出来ると、赤道は目に見えなくても人間の意識の中に存在することになります。

 われわれ鍼灸師は、物的な肉体に触れることを通じて、目には見えない気を察知するのがその面目です。

 肉体は、気が象(かたち)となったものという前提があるからです。

 肉体を肉体たらしめている何か。

 これを東洋医学では『気』と概念化しています。

 臓象学の基本概念も、同じです。

 

 また経絡は、「環の端無きが如し」=メビウスの紐と言われていますが、本当でしょうか。

 『一の会』では、易学の『終始』、循環思想の影響を受けて、概念化されたにすぎないと考えています。

 十二経脉を三陰三陽に分けて順序化することで、覚えやすいという利点も考慮されたのかもしれません。

 何より、一見、整合性がとれますしね。

 おそらく古人のより実際的・実践的な感覚で発見・構築された概念(認識道具)としての経絡が、易学、陰陽論、五行論との整合性が図られ発展し、現在における経絡につながったのではないでしょうか。

 実際、黄帝内経が成立した時期と、相前後している馬王堆漢墓(紀元前186年)から発掘された経絡図には、経絡の方向性や繋がり、臓腑との属絡関係が描かれていません。

 これは一体、何を物語っているのでしょう。

 筆者の想像に過ぎないかもしれませんが、経絡は現代のように一律ではなく、経筋などのように臓腑を意識しない、単なる空間認識の手段として治療を行っていた医療集団が複数存在したのではないかと考えています。

 

 キリストは、「はじめに言葉ありき」と申していたそうです。

 目の前に何かが存在しているかどうかは、認識手段としての概念を持ち得ているか否かによって決定されることを示しているのだと思います。

 言葉=概念を持ちえないものには、認識することが出来ない、なにも存在しないということです。

 その反面、ひとつの概念に囚われてしまうと、その概念世界でしか対象は観えません。

 経絡概念しか持ちえないものは、経絡の世界でしか人体を認識できないということです。

 ですから混沌とした世界に、自由に複数の太極を立てることのできる柔軟さ、複数の概念を持ちながらもそれに囚われない自由さもまた、非常に大切なことになります。

 実際、湯液家は、経絡概念を持たなくても治療ができますし、その聖典『傷寒論』には、経穴名は登場しても臓象学や経絡学を思わせるような記述はされていません。

 だからこそ、我々鍼灸家は、湯液治療という治療手段を持ち得ていなくとも、その概念を学び取り、鍼灸治療に用いることが可能になるのです。

 さて、散漫な書き方をしてしまいました。

 さて『経絡は存在するか』

 みなさまのご回答は、いかがなものでしょうか。

 

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