鍼道一の会 基礎医学講座・病因シリーズ、七情の回の記録です。今回は「憂い」と「悲しみ」を二回に分けてお届けします。第1部は「憂い」です。
憂いとは何か ― 鍼道一の会の見解
「憂い」は、病んだ感情である前に、大切なものに気づかせてくれる感情です。ただし、先の見えなさに任せて思い煩い続けると、心を消耗させる病因になります。
前回は「思う」と「憂い」はよく似ている、というところまで進みました。「憂い」を「案じる」に置き換えると、働きとしては「思う」とほとんど同じです。強弱のグラデーションで、はっきり線を引けない感情なのでしょう。
講座では「憂い」を次のように整理しました。
まだ起きていないこと、はっきり失ってはいないものに対して、心が重くなること。先の見えなさや、状況への思い煩いがある。
目的を持って「考える」のが健やかな思いだとすると、「憂い」はそれが不健全な側に傾いた状態かもしれません。では、憂いにプラスの役割はあるのでしょうか。
憂いの役割は「大切なものに気づかせる」こと、大切なものに注意を向けさせることでした。備える、配慮する、関係や状況を守ろうとする。そういう姿勢を生むのが、憂いのプラスの働きです。
ところが憂いに囚われている最中は、なかなかそうは思えません。それでも「これだけ自分にとって大事なことなんだな」と思えると、少し見え方が変わります。「憂い」は「心配」とも言い換えられます。
代表的なのが「杞憂」です。杞の国の人が「空が落ちてきたらどうしよう」と心配した、という故事ですね。何事もなく続く日常がいかに大切か、という話でもあります。
備えのちょうどいいラインはどこか
全く備えなければ、いざという時に困ります。かといって、心配しすぎると心が病んでしまいます。このちょうどいいラインはどこにあるのか。
・几帳面に備え始めると、あれもいる、これもいるとなってキリがない。
・雪だるま式に不安が増え、備えていない部分がまた心配になる。
・「こんなに何も備えていないけれど、何も来ないだろう」くらいの人もいる。
かつて、このパターンを背景に双極性障害と診断された方がいました。非常に頭脳優秀な方でしたが、不測の事態に備えて思考を巡らせているうちに躁状態となり、疲れ切って仕事が進まなくなると抑うつ状態になっておられました。
定期的に鍼治療を続けながら、ご自身の不安が作り出す「妄想」に気づけるようにアドバイスしました。数年後には新しい道へ進まれ、順調に歩んでおられます。
過度な憂いは、心身を疲弊させ、人生の歩みを乱してしまう例です。
本当に怖いのは「死」ではなく「今とのギャップ」
災害の映像を見て、濁流に飲まれる人を前に「あれなら、苦しむ間もないだろうな」と思った、という話が出ました。
ある患者さんが、このようなお話をされたことがあります。
退行催眠を受けられ、その中で過去世で井戸に落ちて亡くなった場面を思い出されました。周りに人がいて、井戸の上から覗き込んでいる。それがまったく苦しくなかったそうです。
その方は、お母様がお風呂で亡くなったことをずっと気に病んでおられました。「水を飲んで苦しんだのでは」と。
けれど、死はそんなに苦しいものではないと気づいて、「きっと母もそうだったんだ」と心の重荷が取れた、と話されていました。
実は怖いのは死ぬこと自体ではなく、今がこのまま続くという想定と、最悪の状況とのギャップではないか。
死んでしまえば、その先の心配は関係ありません。むしろ怖いのは、中途半端に生き残った場合です。
家を失った、家族を失った、自分だけが助かってしまった。「その後どう生きるのか」を想像して怖くなるのではないか。
癌も同じだと思います。癌になった時の痛みを、元気な今の自分の感覚で想像しています。実際には体が弱っていくので、想像するほどの痛みではないかもしれません。今の自分を基準にして、最悪のストーリーを作っている。これは「ちょっと妄想っぽい」ですよね。
もともと現実に対する認知の歪みを持っていると、聞いた話の中から最悪のストーリーを拾ってしまいます。「危ないところで助かった」という話には目が向かないのです。
憂いが「出口のない行き止まり」になる時
ある患者さんの話です。職場の緊張が続いて、出勤した翌日に過呼吸が出るようになりました。
「会社を辞めた方がいいのかな。でも次の職場に行っても同じかも。私にはどんな仕事が向いているんだろう」と、巡らせている思考がすべて行き止まりになってしまうのです。
この方の場合、防衛が強く働いています。仕事も一生懸命されますが、「何かあった時に自分の責任にならないように」という配慮でやっておられる。これはとてもしんどいと思います。
子どもの頃から、家の中で何かあるとすべて長女であるこの方のせいにされる環境だったそうです。自分を守るのに必死で、感情を感じること自体が難しくなっていきました。そしてそれは現在も続いており、親から離れることができないのです。
不安と不満
「お金がなくなるかも」という不安は、今実際にあるお金に「不満」を抱いているのではないか。今の環境や社会的な立場への不満や、「自分はもっとできるはず」という欲求があるのではないか。
実際、前述の方は「自分の仕事への評価が低い」と話しておられました。「こんなに一生懸命やっているのに」という気持ちがあったのです。
さらに、親から離れられない背景には愛着の不足があるのではないか、という話に進みました。
愛着がないと、親から安心して離れられない。
本当に離れてしまうと、親に愛されている実感を得るチャンスがなくなる。だから無意識に自分を追い詰め、親の近くにいざるを得ない状況を作ってしまう。
こういった状況から抜け出すには、まず「この親から、私の欲しい言葉をもらうのは無理だ」と諦めることです。そのうえで、欲しい言葉を他の人から少しずつ集めていく。パズルのピースを一つずつ集めるように、社会との関わりの中で心を埋めていく。そして最後には「親の承認を得るためではなく、自分の幸せのために生きる」と決める。
主体的な決断がないと、変わるのは難しいだろうという意見で参加者の一致を見ました。
憂いを手放す鍵は「決断」と「委ねること」
大阪周辺に住んでいる私たちは、南海トラフ地震のリスクを抱えています。けれど、次の地震までの十数年のあいだに、他の場所で別の災害に遭う人も大勢います。自分が今考えていないことで、実際に困ることがあるかもしれませんが、配慮にも備えにも限界があります。
ですから最後は、「私にできる準備は現実的にここまで。これ以上は無理」という開き直りが必要になります。ある意味、恐怖をジャンプする勇気です。
人事を尽くして天命を待つ。できないことは、自分に与えられていない選択肢だと思うのです。
例えば「地下シェルターを掘っておけば助かった」と言われても、そんなお金はありません。それは「自分にはできない」ということで、あとは委ねるしかありません。
神道では「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはえませ)」という祝詞があります。
自分の命は、自分で決めたものというより、もっと深いところで使命として生かされている。その流れに「委ねます、神様」と唱えるのです。
これが自分の中でしっくり来ると、楽になるだろうと思います。
委ねるといっても、何もしないわけではありません。「頭と心は分離させた方がいいのかもしれない」と提案がありました。
頭は、生存のために最適なリスクコントロールを考える。
心は、開き直って流れに任せる。
海で漂流している状況を想像してみましょう。
「星がきれいだな」と思いつつ、船が通ったら手を挙げよう、と頭だけは働かせる。委ねた状態でパッと浮かんだことは対策しておき、「それでも足りなかったなら、それは自分の領分ではなかった」と諦める。
実際にそのような状況に置かれると、なかなか難しいことではありますが。
酔っ払って転ぶと大きな怪我をしにくいのは、力が抜けているからです。柔道の受け身も、力を抜くのがポイントです。
反対に、憂いにずっと囚われる人は、ある意味「今何をするべきか」を考えなくて済んでいます。先のことを不安がっている方が、決断を先延ばしにできるのです。決めれば、自分の責任になるかもしれませんから。
こんな実例もありました。お母様の「あなたたちは将来、面倒を見る人がいないから心配だわ」という一言で、急に老後の不安が燃え上がった患者さんがいらっしゃいました。
けれど、改めて独身のまま生きていくと決められてからは、次第にその不安は収まっていきました。単なる一過性のマイブームのようなものだったのかもしれません。
また、「長生きすること」が恐れの対象になっているのも不思議な話です。
ひと昔前は、長寿は人生の楽しみでした。今は老後も生き延びなければならない。ありがたい世の中のはずなのに、人との関係が希薄になって孤立しやすいからなのでしょうか、それとも生活そのものに費用がかかるからなのでしょうか。
はっきりとした結論は付けられませんが、なんとも悲しく感じる世情です。
現時点での結論 ― 憂いとのつきあい方
鍼道一の会としては、現時点で次のように考えています。
・憂いは、大切なものを守るために生まれる。まず「何が自分にとって大切なのか」に目を向ける。
・備えには限界がある。「ここまでは準備した」と自分で線を引く決断が、憂いを手放す鍵になる。
・頭は冷静に対策を考え続け、心は委ねて開き直る。この健全な分離が、憂いを病因にしない。
・憂いの奥に、不満・欲求・愛着の不足が隠れていることがある。そこに気づくことが、臨床では大きな手がかりになる。
次回の第2部は「悲しみ」です。




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