ブログ「鍼道 一の会」

「疫病について その2」

→  「疫病について その1」 – ブログ『鍼道 一の会』

  の続きです。

 

  当時といまは、衛生環境も医療施設も大きく異なります。

 しかし、地形や、気候、風土に関しては、変わらない部分もあります。

(武漢も大きな河の合流点にある都市です)

 大きなイメージで捉えるといまの状況との共通点がみえてくるかもしれません。

 

 画像はおまけ。日本の江戸時代(文久2年)に疫病の予防について書かれたもの。(文久:1861年〜1864年。将軍は徳川家茂)

 黒船来航(1853年)から10年、それまで鎖国していた日本にも外国由来の病気(コレラ、梅毒など)が入り、流行を繰り返していた時代です。

 コレラは港のある長崎から広がり、文久2年には、麻疹にコレラ、と疫病が大流行しました。

 

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『視聴草(続8集の3)』『疫毒預防説』(国立公文書館所蔵)

 

 

「疫病について その2」

 

 呉有性は紅蘇省の出身、16世紀80年代から17世紀60年代を生きた医師である。

 正確な生没年については不明であるが、中国,清朝の正史(国家において正式に編纂された歴史書)である『清史稿』の記載10)11)、そして、彼の著書である『温疫論(1642)』の各巻頭に「延陵 呉有性 又可甫 著」、各巻末に「崇禎壬午(一六四二)仲秋 姑蘇洞庭 呉有性書於澹澹(淡淡)斎」との署名がある。

 これより、「呉の名は有性、字を又可といい、居を淡々斎と号した。出身は延陵江蘇省呉県、今の蘇州)で、その西南にある姑蘇山つまり太湖の洞庭山に住んでいた。本書の成立は序を記した一六四二年である」11)と、推測されている。

 

 当時は明から清へと政権が移行する戦乱の最中であり、また、封建制の統治による搾取が行われ、人々の生活は困窮していたことが予想される。そのような歴史的、社会的背景のもとに、経済的・環境的要因である「明代における揚子江デルタ地帯での人口の集中、商工業と交通の発展は戦乱の影響も加わって同地方に大規模な伝染病の発生をもたらした」12)

 

 この疫病の発生回数については諸説あるが、『明史』の記載によれば、永楽六年(1408年)から崇楽6年(1643年)にかけての大流行は19回にも及び、河北・山東・江蘇・浙江などの各省、広い範囲に被害が及んだようである。11)13)

 続く清代においても、「清初の順治元年(1644年)から同治(1860年)までの二百十四年間に、実に八十回を超える疾病が発生・蔓延したことが知られている。

 その中には、腸チフス・コレラ・赤痢・マラリヤ・天然痘・猩紅熱・麻疹・ジフテリア・ペストが含まれていた。」14)

 これらの熱性の伝染病は以前から「温病」と呼ばれるものであり、それは、温邪・熱邪に由来する多種多様な外感急性熱病の総称であった。

 「温病」は広義において、伝染性のものと非伝染性のものを含むとされているが、この場合、主となるのは前者である。

 

 この「温病」という言葉自体は古くから使われているものである。

 すでに『黄帝内径』の「六元正紀大論」に「溫病迺作」15)との記述を確認することができる。

 その後、『難経』の「第五十八編」にも「傷寒有五,有中風,有傷寒,有濕溫,有熱病,有溫病」16)、すなわち傷寒には五つの種類があり、それが、中風・傷寒・湿温・熱病・「温病」であることが明記されている。  

 漢代になると張仲景は『傷寒雑病論』の「弁太陽病脈証井治上第五」において、「太陽病,發熱而渴,不惡寒者,為溫病」17)、すなわち「太陽病、発熱して渇し、悪寒せざるもの、温病となす」18)と述べ、温病初期の症状の特徴をわかりやすく描いている。

 また、「清熱の方法によって治療することを提起して後世の温病治療学発展のための基礎を固めた」19)

 晋代の王叔和は『黄帝内経』をもとに、温病の種類として温病と熱病を提示、その他、その種類として、温瘧・温風・温毒・温疫の名称及び分類を示した。20)

 また、隋代の巣元方は『諸病源候論』の巻十「温病諸侯」の中で温病が「人が乖戻かいれい(道理にもとる)の気に感じ病を生ず」「病気転じてあい染み易く、乃ちすなわち滅門(一家全滅)に到り、外なる人にも延久す」21と記した。

 隋代以前には、流行性伝染病は、単なる「傷寒」「温病」「流行病」として、六淫(風・暑・火・湿・燥・寒)や時気(気候変化もしくは季節の変化)により発病すると考えられていた。

 これに対し、巣元方は「疫癘」「時気」と呼ばれるものには、流行性・伝染性があるとし、基礎理論に自身の臨床体験を加え、病因学について広範かつ詳細な考察を残している。22)

 宋・元の時代に入ると、劉完素は『傷寒直格』『素問玄機原病式』『素問病機気宜保命集』などの書を著し23)、「それまで外感病初期に習慣的に採られていた辛温解表と先表後裏という硬直的な考え方を打ち破った」。24)

 

→ 「疫病について その3」

 

【参考文献】

10)清史稿/卷502「吴有性,字又可,江南吴县人。生于明季,居太湖中洞庭山。当崇祯辛巳岁,南北直隶、山东、浙江大疫,医以伤寒法治之,不效。有性推究病源,就所历验,著瘟疫论,谓:“伤寒自毫窍入,中于脉络,从表入里,故其传经有六。自阳至阴。以次而深。瘟疫自口鼻入,伏于膜原,其邪在不表不里之间。其传变有九,或表或里,各自为病。有但表而不里者,有表而再表者,有但里而不表者,有里而再里者,有表里分传者,有表里分传而再分传者,有表胜于里者,有先表后里者,有先里后表者。”其间有与伤寒相反十一事,又有变证、兼证,种种不同。并著论制方,一一辨别。古无瘟疫专书,自有性书出,始有发明。」https://www.followcn.com/books/2019/07/07/清史稿-卷502505/

 (参照 2020-1-12)

11)真柳誠:『温疫論』解題,和刻漢籍医書集成 第15号,エンタプライズ,1991 http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/uneki.htm(参照2020-1-5)

12)木村照(著):漢方医学からみた小児ウイルス疾患,小児耳 Vol.8,no.2,1987,p24-27

13)傳維康(著),川井正久(訳):中国医学の歴史,東洋学術出版,1997,p448-452

14)傳維康(著),川井正久(訳):中国医学の歴史,東洋学術出版,1997,p541-548

15)中國哲學書電子化計劃:黄帝内経「六元正紀大論」 

https://ctext.org/huangdi-neijing/liu-yuan-zheng-ji-da-lun/zh(参照2020-1-19)

16)中國哲學書電子化計劃:泄傷寒,五十八難曰

https://ctext.org/nan-jing/xie-shang-han/zh(参照 2020-1-19)

17)中國哲學書電子化計劃:傷寒論,辨太陽病脈證并治法上

https://ctext.org/shang-han-lun/bian-tai-yang-bing-mai-zheng/zh(参照2020-1-19)

18)19)20)21)傳維康(著),川井正久(訳):中国医学の歴史,東洋学術出版,1997,p448

22)傳維康(著),川井正久(訳):中国医学の歴史,東洋学術出版,1997,p239

23)真柳誠:『素問玄機原病式』『黄帝素問宣明論』解題,和刻漢籍医書集成 第2号,エンタプライズ,1988

http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper01/liuwansu.html(参照2020-1-5)

24)傳維康(著),川井正久(訳):中国医学の歴史,東洋学術出版,1997,p448

 

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