本日3月26日、京都嵐山から清滝川沿いに10キロ余りを歩いて行きました。
途中、臨済宗天龍寺派大本山の寺院、天竜寺に差し掛かったところ、僧堂から激しい警策(座禅中に打ち据える棒)の音と共に、怒号と激しい僧堂の床を踏み荒らす音。
うわさに聞く、将軍と称される開祖臨済の臨済禅。
僧堂の近くの、竹林の静けさと相対するかのようでした。
筆者は、専門道場の禅門をくぐったことはありません。
申し出たことはありましたが、取り合ってもらえませんでした。
そして、ただのマニアとして10数年。
悟りとは、どんな味のするものやらと、ただのいやしんぼうですが、興味深々。
日本では、臨済に対して曹洞。
こちらは、だた座る。
筆者のご縁があったのは、臨済禅なのですが嗜好は曹洞。
まあ、それは良いのですが、「さとり」を唱えている臨済禅がなぜそこまで人を打ち据えるのか。
とある江戸期生まれで明治に生きた禅僧が、時代が下がるにつれて「気根」が落ちると言っていまして、この「気根」なるものがなんぞや、というのが長年の謎でした。
筆者の独断と妄想からすると、この「気根」なるものは時代を経て豊かに、便利になるが故に衰えて来たのではないかと。
筆者、歩いていても気づかぬうちに何かと物考えているというか、何かと昨日の事やらまだ見ぬ先の事とかが勝手に浮かんできます。
妄想三昧な訳です。
ところが、道が急になり、歩き登るのが急になってくると、息が切れて苦しくなり、ただただ足を前に出すことが精いっぱいになります。
すると、自分で気づかぬうちに過去も現在も消えて、今の荒々しい自分の呼吸と一歩を踏み出すことに精いっぱいとなります。
言いたいことは、追いつめられてこそ「いま」にしか生きれない自分があわれ、たくましいと感じるのです。
その時にかすかに感じるのは、ただ損も得もなく、前に生きたい・・・だたそれだけ。
そこまで、追いつめられないと人は道を求めないものなのでしょうか、捨てられないものなのでしょうか。
臨済、曹洞の二派に関わらず、それ以前の書物を読みますと、竿の先に追いつめるような様々な工夫がされているようです。
そこから、一歩踏み出し飛び降りる勇気を持てとのことですが、気根のできていない筆者にとっては、ただ想像するしかありません。
臨済禅は、まさにそのような方法で追いつめるのでしょう。
今日の山野歩きは、登山というよりハイキングでしたが、高雄からバスに乗った時にそんな風に思ったのでした。
いまの学生を見るにつけ、豊かになったこの時代、学校に行きたくても行けなかった時代の人々の思いなど、現代の若者には知るよしもないのでしょうか。
今の不遇を、どう自分の人生に生かすのか。
陰陽相対の世界を超えた領域を、チラッとでもいいから垣間見たいと切望しているのが今の筆者です。
戯言です。
ここまで読んでくださった方々、ありがとうございます。
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