このところ、易についてつらつら思うこと、心に思い浮かんで来ることをランダムに書き連ねたいと思います。
前期「一の会」臨床講座で、医学は占いに起源をもって今日に至っている。しかもその占術は、現代行われている四診にもつながっていることを講義しました。
易の始まりは、卜占(ぼくせん)であったことは疑いないようです。
亀の甲羅を火にあぶって生じる亀裂を視て、吉凶を占っていたのですね。
占は、卜と口の会意文字。卜は亀裂の象形、口は祝詞を入れておく箱であったようです。
殷の時代、紀元前1700年ころには、卜占と時を同じくしてシャーマンが社会的に尊敬されていた時代でもあります。
医学においては、巫医がその主流であった時代でもあります。
卜占、シャーマン、巫医など、現代的感覚では迷信的に映ると思いますが、当時は世の人々の要請に立派に応えることのできるものであったと想像しています。
それなりに、ちゃんと機能していたと思うのです。
医学史で習ったと思いますが、巫医から医学が分かれて今日に至ったのは、素晴らしいことである反面、忘れてはならないものがそぎ落ちてしまっているように感じるのです。
そのうちのひとつに、『霊性』の喪失ということがあると筆者は感じているのです。
『霊性』に関しては、『いおり日記』でつらつらと連載中ですので、ご興味のある方は訪問してくださいね。
卜占から始まった易もまた、戦国時代に陰陽論と結びついて次第に理論化され、「よく易をおさめる者は、占わずー荀子」と言われるように次第に卜占は行われなくなったようです。
とは言いましても、たまに街角で売占の易者さんを見かけますが。
筆者も、易に説かれている論理性に重きを置いているのですが、今頃になって、
改めて意識するようになった、人間に備わっている『霊性』。
医学のタブーかもしれませんが、このあたりの事も絡めてゆっくりとですが、しばらく稿を重ねたいと思います。
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