自分と思っている自我は、本来存在しないものである。
自我というものは、この世に生れ落ちた環境の観念を、自らのものとするところから始まる。
生れ落ちた土地の気、周囲が使っている言語やニュアンス、特定の社会のルールーや観念をはじめ、あらゆるものを取り込んで自我は出来上がる。
自我は、自分以外のもので出来上がっているのである。
肉体も同様に、自分以外の食物と空気を取り込むことで成り立っている。
だからこの世を去るとき、自我も肉体もまた、脱ぎ捨てられるのである。
この自分以外のもので出来上がった自我と肉体を、自分のすべてと錯覚するところから迷走が生じる。
自我はいずれ必ず消滅するので、自我が自分のすべてと感じていると、不安になるのは当然。
死は、すべての終わりとの感覚を生むからだ。
この世に生れ落ちた環境の観念を、自らのものとした存在。
自我を作った存在。
私たちに内在する、これを真我とも仏とも神とも称される。
呼び名は違っていても、それぞれ同じ存在。
これこそが普遍・不滅の存在。
自我の存在は環境に依存するがゆえに、環境の変化に右往左往する。
自我が発する喜怒哀楽が、自分のすべてのように錯覚するのだ。
自我は、あたかも現実であるかのような幻想を生み出す。
容姿を、金銭を、優劣をと、自我は不安であるからこそ、常に相対的な位置確認を求める。
自我が生み出す幻想は、瞑想によって身体の動きを止めても、次から次へと現れては消え、消えては現れる。
その幻想を「ただ、ながめる」と、次第に自分が見ている目の前の現実世界は、自分が作り出したものであることに気づくようになる。
自分が作り出した現実世界ならば、自分で変えていくことができる。
真理は、きわめて簡単なところにある。
瞑想は、その入り口。
( 筆者 : 金澤秀光 )
呼吸瞑想は次回5/9
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