東洋医学と民間療法の、違いはなにか。
ひとつには、論理性の有無。
もうひとつには、症状に対する認識が異なる点にあります。
まずもってお断りしておきますが、民間療法が劣っているということではありません。
今の時代のように、誰でもが気軽に医療を受けることが出来なかった時代に、苦しい症状を少しでも和らげようとの願いから、経験的に作り上げられたものであるからです。
この点に関しては、東洋医学とも共通しています。
現代においては、かつての時代とは異なり、個々人の在り様が多様化しているため、自分にとって有効であった民間療法が、他人にも有効であるとは言えなくなってきています。
普遍化の度合いが、低下しているということです。
そこで多様化している個々人の状態を把握するために、認識論が必須になって来る訳です。
東洋医学の根幹となる論理は、やはり何といっても 『 陰陽論 』 です。
これが基礎の基礎、ということです。
これを自由に、そして縦横無尽に扱えるかで、病態認識の広さと深さと奥行きが決まります。
『一の会』 では、常にこの『陰陽論』 に基づき、必ず 『 八綱 』 で認識する習慣を説いています。
意識しなくとも、自然に 『 八綱 』 が、自分自身の目になって来るには、最低でも1~2年はかかります。
『 八綱 』 が、十分手の内になじんでくるようになると、病に囚われなくなります。
病となる背景にある、『気の偏在』 が具体的に視野に捉えられるようになるからです。
例えば、肩が痛くて挙がらないという局所の症状であっても、下焦の気虚によって気が浮いてしまい、気が肩で停滞して痛みを発している場合。
また、下焦はしっかりしていても、イライラや感情の鬱積などによって気逆の状態となって肩で気の停滞を来たしている場合があるとします。
前者は、補法を用いて下焦を固め、後者は、瀉法を用いて鬱積した気を解放することで気を通す。
すると肩の症状が消えるだけでなく呼吸も楽に深くなり、全身がより調和的に気血共に高まって来る。
このように具体的に、どのように全体の 『気が偏在』 しているのか。
これを認識して、調和的に、本来あるべき姿に導いていくのが、東洋医学です。
症状は、『気の偏在』の結果でしかないのですから、症状に囚われることは無くなるのです。
肩が腰が痛いと言えば、肩に腰に鍼・灸をし、身体の内熱の状態を視野に入れずに、何でもかんでも冷えは悪いと温め、灸をするなどというのはアマのやること。
時に害悪を及ぼすことは、賢明な諸氏であればよくご理解いただけると思います。
自分が下す1本の鍼によって、どこの気を、どこへ、どのように導くのか。
自分が下す、鍼の意図を明確にする。
この点に関して筆者は、弟子にとても厳しい。
臨床においては、曖昧は許さない。当然のことです。
意図が明確であれば、間違っていても、つたなくてもよい。
指摘することができる、誤りに気が付くことができるからです。
曖昧にしていると、指摘のしようが無い上に、自分の犯した誤りにも気づかない。
厳しいですが、これを 『救いようが無い』 と申します。
このようなことでは、責任が取れないではありませんか。
このことは、なにも鍼に限ったことではなく、あらゆることに通じる真理です。
志、気高いプロの鍼を、医学としての鍼を目指そうではありませんか。
コメントを残す