ブログ「鍼道 一の会」

瞑想するということ(1)


雨天の晴れ間にて 於:近隣の桜並木にて

 自我の持つ性質のひとつに、分別・判断するということがあげられる。

 自分は正しい・間違っている、社会的評価の上下、経済的な多寡、認められる・認められない・・・など。

 どれだけ謙虚にしていても、自我は巧妙に主張する。


 この自我は、喜びも生むが苦悩も生む。つまりある時は喜び、ある時は苦悩し、絶えず喜びと苦悩の間を行き来するのである。

 ところが、これが自分と思っている自我は、本来存在しないものである。


 にもかかわらず、自我に執着するのは、自我そのものが本来的に、自我が自我の存在に対して不安を持っているからである。

 人はこの世を去る時、自我を脱ぎ捨てる。これが仏教でいう成仏ということである。

 Aの花は大好きだけど、Bの花はあまり好きでないと思うとき、そこに自我が現れてくるのである。


 たまたまある花を見て、思わずただ「きれいだな♪」と感じるとき、花と自分は自他を超えた絶対的境地にある。

 朝に日の出を見て、夕に落陽に接し、「ただ」美しいと感じるときなど、だれでもが普通に体験していることだ。

 ここに、自我を超えた真我を体験するとき、だれもが感動と安らぎを覚えるのである。

 
 自分がわけもなく、「ただ」感動し、安らぎ、うれしく楽しくその感覚と一体となっている時、「なんで感動しているのだろう?」 「なんで楽しいのだろう?」と考えることなど、出来ないはずである。

 思考の入り込む余地など、無い状態。

 目の前の現実と自分が、自他を超えた絶対的一になっているからだ。


 ところが、その瞬間の出来事に執着し、分別によって同じ体験を求め試みようとすると、絶対的一は消える。

 科学的手法による標準化・再現化などは、その好例である。


 過去に執着すると、「いま現在」目の前の新たな現実を、捉えることができないからだ。

 これが心を奪われているとも、見て見えず、ともいう状態である。

 日常の仕事においても、お金のため、生活のため、取引先・上司の要求のため、認められるためなどという思いの分別・判断が入り込むと、自他一体・絶対的境地を離れる。

 そして、喜怒哀楽の間を往来するようになるのである。

 瞑想は、思考や過去の体験によって作られた観念を鎮め自覚し、判別を超えた絶対的一の境地に達する道である。


 ( 筆者 : 金澤秀光 )

※金澤によるの『呼吸瞑想』講座は4月11日5月9日・6月13日に、永松周二先生の『気を意識した体の使い方』講座は4月25日・5月23日・6月27日に開催していきますので、ご興味を持たれた方は、どうぞいおり鍼灸院までお問い合わせください。

 

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