ブログ「鍼道 一の会」

東洋医学の背景

梅も見ごろ

 東洋医学の歴史は、三千年とも四千年とも言われている。ことに鍼灸医学においては、石器時代から行われていたことが考古学的にも知られている。

 これから鍼灸医学を学ぼうとする諸氏は、黄帝内経が著された古代社会に生きていた人々の目に世界がどのように映っていたのかを想像して頂きたい。

 我々が置かれている現代の状況から、とてつもなくかけ離れた古代の情景を思い浮かべるのは容易ではないが、是非とも自由に想いを馳せて頂きたい。

 真黒の夜空に輝く星、広大な大地を照らす太陽、月の満ち欠けに従って産卵する生物たち。

 現代の我々が目にすることのできない、大自然のダイナミックな動きが、古代人の目には手に取るように実感することができたのではなかろうか。

 そして悠久の時間の中で、人は死生を繰り返し、平穏に過ごしている自然のなかで突然生じる天変地異や流行病などで、なすすべもなくこの世を去って行ったであろう無数の人々。

 目前で苦しみ、喘ぎながら死におもむく人を、祈るような気持ちで、時に悶えるような思いで見送ったであろう人々。

 数多くの人々が死にゆく悲惨な状況の中、なんとか人を救いたい一心で医学は次第に発展してきたのではなかろうか。

 このような大自然の情景を眼前にした古代人の心には、どのような発想が生まれたのであろうか。

 目前に広がる荒涼とした自然界の、予測できない変化に対応するため、卜占を用いて心の備えとしていたのであろうか。そうであるならば、これが易の始まりとも考えられる。

 狩猟から農耕へと生活手段の変化をもたらしたものは、おそらく気候変動によって森林の獲物や食物が激減したからではないだろうか。

 地球規模の気候と社会の生産手段が同期しながら変化する過程で、安定的に農産物を収穫するため、自然界の移り変わりを認識する暦の成立は、切実なものであっただろう。

 南に向かって圭(けい)と称する棒を地面に突き立て、棒の北側に現れる棒影の長短を時系列的に観測していた、古代人の姿が目に浮かばないだろうか。

 このようにして、二元論である陰陽論が生まれ暦が作られてきたのだろう。

 その後、認識論は自然の造形に象ってさらに進化し、『書経』の洪範に五行が著わされた後、春秋戦国時代に至って陰陽論と結びつき、現在の陰陽五行論となり、医学においては五臓の概念が出来上がっていたのであろう。
 さらに紀元前5-6世紀、すでに存在したと推測されている一元論である老荘思想を根拠にした道家が、易学と陰陽五行論を交え、一元論・二元論を認識手段として次第に現代の体系を形成して来たと考えられないだろうか。

 それぞれの思想がどのような経過をたどって現在の体系となったのか、考古学的な資料を基に研究が進められているが、未だ判然としていないのが現状のようである。

 とにもかくにも、これらの認識手段を手中にした古代人は、自然界の変化と人間の相関性に気付き、森羅万象を認識する手段としたのであろう。

 さらには、これらの認識手段を人体にも応用し、気の遠くなるような経験的認識を積み上げ、それらの世界観を礎に、次第に医学というまとまった体系を作り上げるに至ったのであろう。

 鍼灸医学の原点である黄帝内経は、これら易学、陰陽五行論と道教的世界観を基盤として成り立っていることはだけは確かである。

 東洋医学を志す者は、対象が古代人の自然に対する目をもって自分の心身に映るよう、日常的に心がけることが必須である。

 一の会

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