意念って書くと、なんか怪しい感じがする方もいらっしゃるでしょう.
ですが、フトした時に感じる人の視線や何となくピ~ンと来る感じなどは、この飛んできた意念をみなさま、感知してると思うのですよね。
いかがでしょうか。
このことについて、興味深いお話があります。
鉄砲の弾よけで有名な合気道術創始者、植芝盛平の逸話です。
ブログ【ガチで拳銃の弾をよける】
https://matome.naver.jp/odai/2147109464656702301
相手が銃の引き金を引く前に、光の弾が飛んでくるのでそれをよけると鉄砲の弾が当たらないのだそうです。
この光の弾、銃を撃つ人の意念ですよね。
意念が相手に飛ぶのですから、意識・無意識領域に反応する身体が反応するのは、むしろ当たり前ということになります。
筆者、植芝盛平のように光の弾は見えません。
ですが相手の意念で身体や心が反応する感覚はわかります。
筆者だけが特殊なのではなく、このような感覚をお持ちの方は、皆様の中にもたくさんいらっしゃると思います。
何となく快とか不快とか言った感覚です。
そうでない方はちょっと意識的になられると、どなたでも感じ取ることができると思います。
筆者の知り合いに、狙うと相手に「ばれる」と言っておられた剣道家の方がいらっしゃいます。
まさに自分の意念が相手に察知されるということですね。
記憶は定かではないのですが、宮本武蔵の「五輪の書」にも、相手と向かい合えば、一箇所を観るのではなく全体をぼんやりと観るというようなことが書いてあったと思います。
オイゲン・へリゲル著の「弓と禅」にも「的を狙うな」とあるのは、それ以上にふか~い意味があるのでしょうね。
相手には、観る側が持ってるものが伝わります。
双方向・同時にですよね。
我々は、患者さんを観て病の深浅や治し易いか否かを判断いたしますが、同時に患者さんもまた、我々の人柄や鍼の力量を瞬時に観ようとしますよね。
こちら側が確信に満ちた強い意念を以て鍼をすれば、気は動くべくして動く・効くべくして効くわけですね。
鍼する前に、すでに決まってる感覚ですね。
このような感覚で鍼をされてる先生方、たくさんいらっしゃると思います。
が、書けば簡単ですが、実際は百発百中というわけには参りません。
そこはなかなかむつかしいものがありますが、そこに工夫と修練、術者の伸びしろがあると思うのです。
そしてそこそこできるようになってきましたら、今度は「狙わない」、意図性を放棄して手の赴くままに鍼してどうなるかに挑んでみたいと思います。
なかなか面白い世界だと感じております。
仙術としての鍼。
先にご紹介しましたブログ【ガチで拳銃の弾をよける】の続きに、山梨の漁師、佐藤貞次郎と植芝盛平との逸話が書かれています。
https://matome.naver.jp/odai/2147109464656702301?page=2
植芝盛平をして、このように言わしめてます。
「あんたはワシを撃ってやろうなどという気持ちがこれっぽっちもない。
最初から当たるつもりで撃とうとしている。
そんな人の鉄砲はよけられない。たいしたものだ」
これは禅的世界に通じると思います。
夢分流・鍼道秘訣集の意識世界でもある訳ですし、先に書きました「弓と禅」の意識世界でもある訳です。
こうなると、なかなか標準化して言葉や理で伝えることがむつかしくなりますねぇ。
型から入って型を破る。
守・破・離という流れを踏んでいくことになります。
鍼の世界って、本来はこういう世界だと思うのですが、みなさま、いかがでしょうか。
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