我々東洋医学をやってる人間は、中国や日本の古典に触れる機会が多いのですが、それらに触れていると、時折著者の『誇り』のようなものを感じるんです。
誇りって、自慢じゃないですよね。
これは、明確に別物です。
誇りと優越感、優越感は劣等感の裏返しですから。
相手の反応によって、仏と鬼の間を往ったり来たりになってしまいますから。天使と堕天使みたいになってしまいますよね。
自尊心も同じですよね。人に何か言われて傷つくようなものは、自尊心とは呼べませんよね。
さりとて、人に何か言われて傷つかないようでも、自尊心は容易に高慢と化してしまいます。
高慢も優越感も、善悪で図れないものですが、ただ、自分自身を思い込みの中に閉じ込めてしまうので、実は息苦しいはずだと思います。
まことに人のありようは、言葉では表現しきれないですね。
筆者の感覚では、自ら『誇る』と発したら、もう『誇り』でないように思います。
誇りとは、接した相手が感じるものであって、自ら意図的に発するものじゃないと思うのですよね。
で、その『誇り』は、筆者の感覚では当たり前のことから外れない心の在り様だと、筆者は思ってます。
この、当たり前のことから外れないというのが、筆者にとってはなかなか難しい。
当たり前のことというのは、自然の道理、宇宙の原理のことです。
大きくたとえれば太陽は、差別なく万物に作用して照らし温め施し、大地は天から降りてくる雨や陽光を受けて形ある万物を生み出すようなことです。
これ、当たり前に作用して自ら主張しませんよね。
人にあっては、例えば男女陰陽が相交流・協力して新しい人間をこの世に誕生させ育てること。
男女入り乱れ共有した場や関係性の中で、対立・闘争⇔協調・平和を繰り返しながらつねに新しい価値を創造し化育する働きなどです。
宇宙も地球も人類も、一貫してこの働きによって変化・発展して今現在があるのですから。
さらに小さく人の日常は、太陽が昇れば起きて、日が沈めば寝る。腹が満たされたら幸せと感じて満足を楽しむ。
あらゆるものとの関係性で自分が成っているのだから、当たり前のように自他の区別なく相互扶助の気持ちが起きるなどです。
このように書いてましても、筆者はしょっちゅう我よしの心に囚われて、ついイラっとしたりカッとしてしまいますので、誇りならぬホコリ高き人間という程度ですな。
話を元に戻しますと、素晴らしいなと筆者が感じる古典は、一つにはこの天地自然の道理に法って一貫して記されていること。
もう一つは博愛、人間愛に溢れていることです。
このような古典は、時代を超えて読み継がれています。
その最たるものは、素問・霊枢・傷寒・金匱などをはじめとした古典の数々です。
さらには、行動もまた一致している。
医学書であれば、著者の処方を見れば、おおよそどんなこと考えてどんな事やっていたのかが見えてきます。
いわゆる知行一致というやつです。
すごいなって感じますし、この人、誇りを持って生きたんだなと感じます。
憧れますよ、そのような生き方をした先達には。
筆者は、吉益東洞(1702-1773)とか原南陽(1753-1820)の医書に目を落とすと、シビレます。
湯液(漢方薬)も鍼灸も、医学原理は同じです。二人とも、見事に簡素にして高度な治療を行っています。
鍼は1本でも、ぶれずに直に下す。簡素にして高度。
このような鍼に集約されるような生き方を目指したいですね。
草花は、静かにその、時を待つ。
花が咲くまでには、準備が必要です。
静かに淡々と根の基本を培う。
時期が来れば自然と花咲いて、しかも誇らない。
古典に触れてると、このような感覚になるんですよねぇ。
初学の方々、志を高くしてじっくり根を養えば、時節は必ずやってくるのが天の道理というものです。
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