まるでバラのよう・・・山茶花 |
14日『一の会 基礎講座』で、筆者の娘が患ったインフルエンザB型が呼吸器症状を呈する間もなく一日で治癒した症例を提出したので、その内容を簡単にまとめて開示し、治療家が症例を通じて見なければならない点について述べてみたい。
経過
12日(金)に、なんとなく身体が熱いと感じており、翌13日(土)朝に発熱。温度計は用いなかったが、それほど高いと感じず。
ただ、このところの春温多湿の天候を考え、なにがあってもあらかじめ裏の内湿を除いていた方がよいだろうと考え、五苓散を服用させ出勤。
13日(土)、お昼前に妻から39度を超える高熱。
加えて保育所からインフルエンザの検査を受けた上で今後の登園計画を立てて欲しいとの要請で受診するとのこと。
その後、病院でインフルエンザB型と診断され、タミフルの処方箋を出してもらうも、妻の判断で処方を受けず、経過を見守ることに。
お昼過ぎに、再度妻から連絡を受ける。
二便、食欲とも正常。呼吸器症状はまだ出ていない。
だがさすがに少しぐったりとしているが、コタツに入りたがらず、毛布も嫌がるとのこと。
風熱と判断し、邪がまだ裏に侵入せず、表に留まっている段階と判断。
手太陽の少沢穴、手陽明の商陽穴の二穴刺絡を指示。
高熱でぐったりしていたが、刺絡直後から一変して起き上がり遊び始めるも、相変わらず高熱が続く。
夕方になってようやく解熱し、機嫌よく遊んでいるが、妻の感覚としてはまだすっきりと解け切っていないとのこと。
ただ、お粥はもう飽きたので、しっかりとしたものを食べたいといっているので、峠は越えたと判断。
予後の養生について
14日(日)早朝、ほぼ解熱し、結局呼吸器症状は全く現れず、よく眠っているとの連絡。
同日夕刻、筆者帰宅すると、すでに全快の様子だった。
外感病であっても、外邪を感受した背景を考慮し、加えて本日も気温が高く湿気が多いので、五苓散に加え、夕食は清熱利湿の小豆を用いた粥で済ませる。
また元気そうに見えても、正気の消耗は当然回復途上にあると判断して、入浴は、明日以降とした。
また、家族は互いに関係性で成り立っているので、家族の一員が病となれば、家族全員が同じく養生をする必要がある。
よって、娘と同じ小豆粥で夕食をすませ、9時前には就寝。
15日(月) 完治と判断。
考察
重症化せず短期で完治に至ったのは、的確な判断と処置が奏効したのは確かである。
しかし、決して見落としてならないのは、本当に 『鍼だけが効いたのか?』 ということである。
治療家の方々は、ぜひこの点に留意して頂きたい。
1.治療以前の患者の素体はどうであったのか。
2.患者の家庭内の環境はどうであったのか。
3.患者と治療者との信頼関係はどうであったか。
これらの点を見落とすことの無いようにすべきである。
勉強会や専門雑誌で提出される症例と言うのは、このような点からは切り離されているものである。
さらに、大抵は上手くいった症例だけが検討課題とされ、うまくいかなかった症例こそ重要であるのに、提出されることが無い傾向にある。
従って、症例は一定参考にはなるが、症例と同じような状態に、同じような鍼をしても、期待した結果が得られるとは限らないということです。
『鍼だけが効いたのか?』という見落としてならない3点についてもう少し触れます。
1.治療以前の患者の素体はどうであったのか。
これは、発病以前の生活がどうであったかによって、正気と内邪の状態に配慮する必要がある。
とりわけ日ごろの飲食の内容を知ることで、おおよそ素体の邪実としての内湿、内熱の程度が知れる。
外邪が入裏するのは、正気の盛衰が決定し、同気相求によって感受する邪気が熱>湿、熱<湿を決定する。
鍼が奏効するか否かは、患者の正気と邪実の程度が決定する。
2.患者の家庭内の環境はどうであったのか。
家庭内の緊張の有無とその程度は、そのまま気滞の有無と程度に直結し、治療結果を左右する。
患者だけでなく、家族の一員の誰かが、多忙であったり、精神的に余裕が無いと、家庭内の空気は緊張し、家族関係の中に無意識的な緊張を生み出す。
これが気滞となり、病を生み出し、長引かせる土壌となり、往々にして治療結果をはかばかしくないものにする。
3.患者と治療者との信頼関係はどうであるのか。
治療者が、的確に病態把握をし、自信の裏付けを以て下す一鍼と、迷いながら下す一鍼とは、患者の無意識的な感覚と感応して効果が全く以て異なる。
たとえ症例を通じて学んだ病態であっても、治療者自身が自分の感性で確信を得た場合と、頭だけで分析して下す鍼とでは、結果は天地ほどの差が生じるということである。
これは、治療者側がしっかりと、心得ておくべき点である。
一方、患者側の問題として、西洋薬を服して良くならなくて来院しているにもかかわらず、西洋薬を服用し続け、西洋医学の補完として受診した場合である。
つまり患者の神気が定まっていない場合である。
(もっとも、医師の治療を妨げてはいけないと、法律が定めている以上、医師の投与した薬剤に関して患者が意見を求めてきても、安易に応じるべきでない)
このように見ていくと、我々の医学では、標準化できる部分と、標準化できない部分があることに気が付いていただけたらと思う。
我々の医学は、人間を対象とするのであるから、標準化されている部分は基礎医学として当然だが、患者を取り巻く関係性を読み取り、その心理状態までもを含めては、標準化できない。
標準化できない病の真の本質を、症例検討課題に現すのは至難の業である。
また鍼灸医学に信頼の無い者に対しては、扁鵲六不治にあるように、毅然と鍼を断るべきである。
特に、六不治中三番目
「衣食の養生をしない者」
六番目の「巫女の言葉を信じて、医者を信じない者」は、治療者と患者の関係性において、特に重要である。
また医療の重複は、西東医学の疾病に対する概念の違いから、往々にして正反対の作用を加えることになるので、当然治癒は難しくなる。
また、治療者が時間を割いて繰り返し説明しているにもかかわらず、治療者の指示に疑問を抱いたり、従わない者も、筆者は断る対象としている。
理由は、治らないばかりか、自分の不養生と不信頼が結果につながることに無知な上、やはり鍼灸ではだめだということになり、さらに信用を失うからである。
治療家は、患者の利益を最大限に優先すべきであるのは当然である。
患者自身が鍼灸医学に無理解なのは致し方ないとして、患者は時間と費用を投じて来院するのである。
直接命にかかわるような特殊な場合を除いて、 医療の重複が患者の利益にならない場合は、そのことを十分に説明し、患者に選択を促すのが治療家としての責任である。
東西医学の融合などと安易に謳っているものは、両医学の医学原理を十分理解していない者の主張することである。
よしんば重複がやむを得ない場合においては、患者と共に医療の主従を明確にするべきである。
治療者が結果が出ないと判断すれば、患者の不利益にならないよう、明確に伝えるべきであると筆者は考える。
我が国の古流派、夢分流打鍼術の「鍼道秘訣集」にも、通り一遍も鍼すればもらえる、目先の治療代に走るなとあるが、金言である。
最後に、私事を呈しましたので一言。
たとえ流感であっても、家族に病人が出た時は、特に問題は無いなと感じても、一旦は立ち止まって家族全員が自分の心身の状態と、飲食・就寝時間など生活自体を省みることが大切です。
転ばぬ先の杖と申します。
転んでしまったなら、取られた自分の足元をちゃんと確認することは、当然のことです。
治療者自身も、また病んでいる人に対しても、常日頃から「養生」し、身を慎むことは健康に必須のことと知り、これを伝えていくことは医療人としての重要な使命です。
少しまとまりの無い内容となってしまいましたが、治療家諸氏の、研鑽練磨の資になれば幸いです。
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