治病大体第一の二番目は誤治について
張仲景を引用し、誤治した際にはどのような状況になるのかを記しています。
「灸するべき時にしっかりとしなければ、寒邪が体内に凝り固まって、時間が経つと更に固くなった後、その気が心を衝き上げ消散するところがないので病が酷くなって死に至る」
あくまでも引用ですが、誤治からの気の変遷もしっかりと捉えていた、そしてその重要性を分からなければわざわざ抜粋して記載することはないでしょう。
三番目は治病求本について
本草経から抜粋しています。
「あらゆる病を治療しようと考えているなら、まずその源を明らかにして、病気の兆しや動き具合を見る必要がある」
症状に捕らわれすぎている時には照顧脚下再度、原因を見つめ直しましょう。症状を原因と思っていませんか。一定以上形が壊れればそれも原因と言えますが、その裏側に心理的な傷はありませんか。
そこで治療の可能性について「五臓の気が空虚でなく、六腑の力が尽きておらず、血脈が乱れず、根本的な元気が散っていなければ、服薬によって必ず病気は治癒する」
と、書かれています。本草経なので薬になっていますが、鍼灸でも同じ事が言えるでしょう。
逆に「ある限度を越せば生命は保ちがたい」と限界まで提示しています。
現代では、より長く生きる為、限度を越しても生きる為に様々な研究がされてますが、壊れる可能性が低いものは大切に扱われる可能性も低くなります。逆に壊れやすいからこそ大切にしようという気持ちが沸き上がります。限界、医学で言えば医療倫理の大切さをさりげなく盛り込んでいますね。
最後に注意すべき事として、異病同治、同病異治を行う為に、
「人の虚実、補泻、男女、老人、苦薬、栄衰、郷壌、風俗皆異なる事をよく見る必要がある」
と書かれ、褚澄(人名)を例に挙げて、同じ女性で同じような年齢でも生活環境によって治療が異なると言っています。
治病求本には、本(原因)と標(枝葉)をしっかりと区別すること。どれだけ個人を詳細に見る事が出来るかが大切だと書かれています。
CT、MRI、X線等現代科学の粋を集めた検査機器で検知できるものはしっかり検知して貰っても構いませんが、そこからは検知できないものもたくさんあり、そこに一意専心すべきだという事が分かる論です。
これ以降、最後までは、黃帝内経太素の四気調神大論篇と異法方宜論篇、最勝王経、医門方を引用しています。
黃帝内経からは疾病の地域性、地域性による治療の違い、
当時最高の大乗仏典とされた金光明最勝王経から見た病の分類(インドのアユルヴェーダ(生命科学)を主としたトリドーシャについて)、
医門方からは季節による治療法の選択等。
季節、地域、時間、体質によって治療法を選択し、病状によってどのような選択をするのが良いかを示しています。
以上が、治病大体第一のダイジェストですが、ここまで読むと詳細に各経典を見てみたくなってきます。医の門に入った初級者、中級者は志を新にすると共に更に深く探求したくなるように、長年携わってきたものに対しては、一つの専門に固執していないか、志が本道から外れていないかを問いかけるような治病大体第一。
とりわけ、中国からの出典が多い中、アユルヴェーダをも包含しようとしているところに丹波康頼の探求心、智恵の深さが表れていると感じました。
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