みなさま、新年明けましておめでとうございます。
元旦から、お屠蘇を頂きながら改めて古方派・吉益東洞全集を読み返しておりましたところ、目が止まってしまったところをご紹介したいと思います。
その全集の中の「気血水腹診候」吉益東洞著の冒頭部分をご紹介したいと思います。
江戸期は現代と異なり、飲食物は有機栽培、完全無農薬の時代でした。
また自動車や鉄道もなく、人々の移動は主に徒歩の時代で運動不足の心配も現代ほどではなかったでしょう。
それでも人は病んでいたのですから、病のすべてを添加物や化学物質に求めることは出来ないのではと思うのです。
また飲食物に関して、具体的にこれが良い・悪いなどという内容も記載しておりません。
筆者の心内には、どんなものを飲み食いしても、しっかりと代謝して排泄していれば、病など生じないのだと言い切っているように映ります。
原文を記して筆者なりの意訳を添えてみました。
さてさて、健全な身体を維持するには、どのように身を処して生きて行けばいいのでしょうね。
いやいや、主客を違えていますね。
どのように身を処して生きれば、健全な身体がついて来るのでしょうかね。
みなさまは、どのように読み解かれるでしょうか。
「気血水腹診候」吉益東洞著
夫れ飲食、口に入り、咽喉より肛門に至るまで一路なり。
飲食は口に入って咽喉を通り、肛門に至って排泄されるまで一本の通路のようなものである。
糟粕滞らずして二陰より出ずれば、則ち百才に渡りて病無し。
飲食物を消化した残りのカスが、大便と小便としてしっかりと排泄されたのなら、百歳になるまで病になることはない。
滞れば、則ち是れ変じて、一身に満ち、四肢百骸病むなり。
しかしながら代謝が滞ると、身を養うはずの飲食物が変化して毒となり、この毒が全身に満ち溢れて、万病を生じるようになるのである。
病中に在れば、行きて左右となる。
病毒が五臓六腑にあると、左右の動きにも不自由するようになる。
之れを以て学者審請せよ。
このような簡単な道理を基にして、医学者はさらに詳しく研究しなさい。
夫れ人の病たるは、毒なり。
人が病になるのは、すべてこの毒が基本である。
穀せざること無くば、何人ぞ生きん。
食物を摂り、消化することができなければ、どうして人は生きることが出来ようか。
口腹に入るものは、唯飲なり。
口に入り腹に納まるのは、ただ飲食物だけである。
而るに其の水毒、一身を流行すれば、穀毒、腸胃に止まる。
その飲食物が滞り、水毒を生じて全身をめぐるようになれば、食物もまた腸胃に滞るようになる。
故に毒物動きて証を顕わす。
このようにして毒物が身体を動き回る場所により、様々な病証を顕すこととなるのである。
十の七八は水なり。
病の障りとなるのは、その七八が水毒である。
十の二三は穀なりと。
そして残りの二三が飲食物の滞りなのである。
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