桜が散り、ツツジとハナミズキがきれいに映える、春爛漫の季節となって参りました。
学生たちも、新しい制服・新しい環境に少しずつ慣れてきたのではないでしょうか。
「一の会」にも、今年鍼灸学校を卒業し、鍼灸免許を取得された初々しい先生方もご参加下さってますが、金澤先生は、毎年同じことをお話されます。
鍼灸医学が内包している世界は、一般に知られている以上に深く広いのだと説かれます。
これからの時代に求められているものとは、もともとあらゆる疾患に対応してきたこの鍼灸医学を、具現化できる先生なのだと話されています。
先ずは、動画をご覧くださいませ。
動画をご覧になれない場合はこちらへ⇒ 2016.4冒頭提言
さて臨床応用講座の冒頭は、金澤先生・永松先生・稲垣先生の三名によるパネルディスカッション形式の時事講義でスタートしました。
先ずは金澤先生から、難経五兪穴についての問題提起があり、学生の頃から長年疑問であったことがようやく解けてきた経緯を解説されました。
難経では、指先から肘・膝関節に向けて、井(せい)、滎(えい)、兪(ゆ)、経(けい)、合(ごう)と経気が流れ、陰経は木火土金水の順番で、陽経は金水木火土の順番で流れるとしています。
傷寒論、少陰病腎陽虚衰証である四逆湯類の病症は、四肢末端から起こった冷えが手足の四関に向けて昇ってきます。
傷寒論的解釈では、経気は中枢体幹部から四肢末端に流れると考えるのが、順当であるはずだと話されました。
これらのことより、難経学説に対して、全く異なる見解を示されました。
それでもなおかつ、井穴は心下満を主るとされているのは、空間論的に相関があり、同時に百会とも相関するが、足の井穴と手の井穴では、同じ心下満と相関があるにしても、全く意味合いが異なってくると解説下さいました。
次いで稲垣先生は、ほぼ金澤先生の見解に同意しつつ、ご自身がどのような視点で四肢の経穴を捉え、使っているのかを開示して頂きました。
永松先生は、五兪穴の出て、溜って、注いで、行って、入るという流れ方を図示され、最後の「入る」について、今ひとつ理解できない点を開示してくださいました。
また、難経の著者とされている秦越人・扁鵲は、内経を元に扁鵲流の身体観を打ち立てたはず。
だからこそ、現在の我々の目に映っている身体観では、難経は理解できないのだということでした。
そして難経を理解して臨床に用いるには、扁鵲が人体をどのように捉えていたのか・映っていたのかをつかむ必要があると話されました。
これまでは、五行穴に対する一般的解釈に何の疑問も持つことなく来ましたが、ここまでリアルに気の動きを捉えて五兪穴を臨床に生かそうとする態度に、感嘆した次第です。
二時間目は、永松先生による易学講義。
先ずは易学の歴史から始まり、みなさんがとっつきやすいことを考慮して人相学を用いて解説してくださいました。
□(しかく)は陽。○(まる)は陰という単純なモデルから導入。これに三才思想を加味し、非常に興味をそそられる内容となりました。
午後の三時間目からは稲垣先生による「生薬から学ぶ人体と病」。
今回は『気滞とその治療薬』でした。
臨床において、「気滞」の概念は、ほぼ肝気鬱結と同義語として用いられているが、このような中医学的範疇では捉えきれないものであり、それは方剤を詳細に分析すれば明らかであると。
中医的解釈は、詳細なようで決定的な決め手に欠ける点を指摘し、古方派の現した「薬徴」にこそ、気を的確に捉えるヒントが隠されている事を解説。
方剤の薬剤構成から身体の気の偏在をつかむことが出来れば、鍼で方剤以上の効果を上げることは可能であると力説されていました。
また、このような確信に至るまで、約10年の年月が必要であったとも話され、簡単に思えることでも確信をもって臨床に応用できるまでには、それ相応の勤勉さと積み重ねが必要なのだと感じ入った次第です。
四時間目は、金澤先生による「臨床実技」。今回は四診総論となりました。
基本的・太極的なお話は以下の点に要約されるのではないかと思います。
ひとつには、「患者は、自分の身に何が起きているか分からないから受診している。」
それはそうですよね。
そして術者は、「症状に囚われず、その背景・関係性の全てを視野に収めながら、患者に起きていることの意味を知り、問題解決の一点を見定める視点が大切である。」
これはかなりハードルが高そう・・・
ふたつには、「人は、この世の現実という場を共有しながら、自分を中心とした主観的自我の世界に生きている。
主観的自我に生きる孤独さが、人との共感とつながりを、魂が希求させているのである。
だからこそ、人は外界との境界である肌感覚を通じて、触れあいたい・触れて欲しいと望んでいるのである。」
主観的に生きる孤独さって、普段あまり感じませんが、確かに行き違いのトラブルって多々ありますよね。
「ここに切診は、単に陰陽・八綱情報を得るためだけのものではなく、切診という行為が内包している重要な眼目があるのである。」
なんだか難しいですが、要するに患者さんが気持ちいい、触れてもらってホッとするような、患者さんと快い”気の交流”が起きるような触れ方をしなさいっていうことなのでしょう。
三つには、「人も術者も、必ず何らかの葛藤を抱えている。」ということ。
「矛盾に満ちた不完全な術者が、人を癒すことなど出来るのであろうか。」
「術者こそ、常に自分自身に向き合い、自分が矛盾に満ちた不完全な存在であり、それでもなお生きたいという生命の欲求を受け入れるところから、自他を超えた慈悲の心が生まれるのだ。」と。
これらのことが下地となってこそ、術が生きてくるということでしょうか・・・
五時間目は、永松先生による治療家の身体作りのための「一之道術」。
今回は、易学の流れを引き継ぎ、九宮のお話も交えながら解説されましたが、今回初めての参加者には難しく感じられたかもしれません。
そして実際に自分の身体感覚を用いての呼吸法を行いました。
永松先生の身体学は、いつも単純な動作を示されます。
その単純な動きの中に、我々がすでに見失っている身体感覚を取り戻す工夫がされています。
いくつかの動作を教示されても、身体感覚の要は「ひとつ」。
なかなか言葉では伝え難いのですが、指一本を動かすにも、気の重心を動かさずにしかも全身を用いるといったところでしょうか?
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