親切って、親を切ること?
切とは、ぴったりと相手に寄り添うことの字義があります。
親が子を思う気持ちと、子の思いとを一にして、ぴったりと寄り添うことを親切というのですね。
東洋医学では、患者に直接触れて候うことを切診と申します。
切診とは、実際に相手に触れた手から伝わってくるものを、心を平らかにして察知する診察法です。
このあたりの消息は、素問<平人気象論十八>
「常以不病調病人.醫不病.故爲病人平息.以調之爲法」
常に病ざるを以て病人を調う。醫は病まず。故に病人の爲に息を平らかにし、以て之を調うを法と爲す。
に、如実に語られている通りです。これって、あまり注目されていませんが、極意と言えば極意です。
2月5日の「一の会」では、稲垣学術部長の実技披露にモデルを買って出たのですが、参加者の切診を通じて伝わってくるものを、実は観察していました。
結果は、素晴らしいものでした。
みなさん、学術が自分のものになっておられると感じました。
「触れる」という行為には、互いの気の交流が行われています。
触れて触れられて、快に感じるか不快に感じるか。
これが答えであり結果です。
お互いの総体としての在り様が、直接肌を切っする接点において、瞬時にやり取りされるのが、実際に触れ合うということの意味合いです。
筆者は、目を閉じて唯々触れられる手から伝わってくるものを受け取っていたのですが、一年目の方、二年目の方、それぞれに個性を感じつつ、それぞれに出来上がりつつあるものを感じ取れて、とてもうれしく思えました。
触れることから、何を読み取ろうとするのか。
それぞれの人間理解の視点と学んだ学理がどれだけ心になじんでいるかが、如実に伝わってくるものです。
どれだけ学理を積んだとしても、最後には切して刺鍼し、切して抜鍼します。
この点は湯液の世界とは大きく異なります。
鍼灸医学は、最後の最後まで術者の在り様がそのまま結果につながる医学です。
この最初から最後までのアプローチの在り様は、永松先生による『身体学』が多くの示唆を与えてくれます。
4月からの新講座に向けて、我々講師陣も区々精進中であります。
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