瞑想を通じて、自分の感情や浮かんでくるイメージの中に素直に入っていくと、自我意識の根底には、不安と恐れが存在することが自覚できる。
この不安と恐れは、自分が世界から分離された状態‐孤独として意識されることから生じる。
瞑想を通じて自分自身と向き合えば、自分自身を観察するものと、されるものが存在する。
誰でもが、簡単に体験できることである。
観察するものと、されるもの。
自分自身の意識が、すでに分離された状態なのである。
この、分離された観察するものと、されるものとの間には、葛藤‐争いが生じる。
この自我意識が、目の前の現実に投影され、自分とは分断された油断のならない世界として、あたかも現実かのように映し出すのである。
衝動的事件の背景にある自意識などは、その端的な例である。
そして自我は、自我を守ろうとして思考を始める。
小さな出来事に、思考を働かせれば簡単に大きくできる。
小さな傷を、いとも簡単に大きくできるのも、この思考である。
ただ、「悲しい」
ただ、「腹が立つ」
たったこれだけのことが、自我の正当性‐思考を通じて戦う相手を多く作り出す。
そして正当性‐思考は、糊と化して過去の出来事に執着するようになる。
すると過去の出来事が頭から離れなくなり、苦しみとして自覚される。
思考は、分離と執着を促す。
思考が作り出す平和は、幻想のように一時的に感じさせるだけ。
歴史的に、戦争が繰り返し行われてきた訳である。
この、自我が作り出す世界を、やめさせようとせずに「ただながめる」。
瞑想した結果を期待せずに、「ただながめる」。
期待さえ、自我が欲する。
( 筆者 : 金澤秀光 )
次回の養生講座は5/23(土)・6/27(土)
永松先生による「気を意識した体の使い方」です。
筆者金澤による呼吸瞑想は次回6/13(土)です。
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