本日ふとしたことから、医心方巻二十七養生に目が行き、大體第一を読んでフェイスブックに掲げ、流れでブログに書くことになった為、自力ではなく望月学先生、槇佐知子先生の両先人が書かれた書き下し及び訳を参考しながら、書き下しの現代語調整、独自の見解を加えて書いてみます。
医心方は各篇の冒頭でダイジェストとして各論の大體を記載しています。
養生篇は合計十一項目。大體第一、谷神第二、養形第三、用気第四、導引第五、行止第六、臥起第七、言語第八、服用第九、居処第十、雑忌第十一です。
養生篇の大體第一では、千金方、老子、文子、養生要集、中経、少有経、彭祖、仲長統、道機、稽康の養生論、抱朴子、荘子、呂氏春秋、顔氏の家訓を引用し、しかも千金方の引用は養生の真理を厳しく追及しています。物事の本質を述べながらも、万人にも分かりやすく、又引用することで参考価値のある他の書へ誘うという深い慈愛、人を育てる心を持って書かれています。
今回は千金方、老子からの引用部だけ簡単に訳すと、千金方には次のように書かれている。
養生というものは、学ぶことで自分の習性にしようとするものである。できるようになれば、自然と善行を行う事が出来る。できなければ自分にも他者にも何の益にもならない。
自分の内外にも他者の内外にも良い事ばかりが起こるようになれば、病は生じる事がなく、世の乱れ、災いや害も起こる理由がない。これこそが養生の本筋である。
自分の本性を養うというのは、未病を治すという意味である。従って性を養おうとする人は、薬(外丹)を飲んだり仙人になろう(内丹)とするだけでなく、様々な行を同時に行う必要がある。
行がしっかりと身につけば、薬や栄養食をとらなくても、長生きすることができる。徳行が充たされていなければ、譬えどんな高い薬を服用しても寿命を延ばすことはできない。
そういうことで、老子は「養生がしっかり身についている人は、旅に出て虎や兕に出会っても恐れ、慌てることはない」と言っているのである。
これは徳を修めた事による天のはからいが働いており、どうして薬の服用だけで長生きしようなどと思えるのだろう、と疑問を投げかけている。
これは徳を修めた事による天のはからいが働いており、どうして薬の服用だけで長生きしようなどと思えるのだろう、と疑問を投げかけている。
以上のように、養生の本質は身体と心の健康を保つというレベルの浅いものではなく、自分の性質を極限まで良くすることで自分の未病(性質、癖)、他人、しいては災害まで起こりにくくしようという事であり、たとえ今服用中の薬があったとしても、最終的には自分の身体の自然治癒力、生命力だけで生を全うすべきだと教えてくれているように感じます。
実際にどうしようもない痛みや愁訴がある時に薬の力で少し良くなるのであれば、使うなとは思いません。
しかしながら、自分が招いた負債を何かに肩代わりしてもらう事ばかりやっていては最終的には悲しみ、苦しみが訪れる可能性が高いことは想像に難くないのではないでしょうか?
修行のあり方であっても、人から貰ったものばかりで自分の修練、思考、意志を放棄していると、知識だけ幾ら増えてもいざという時の胆力は形成されないのと同じだと感じます。
しかしながら、自分が招いた負債を何かに肩代わりしてもらう事ばかりやっていては最終的には悲しみ、苦しみが訪れる可能性が高いことは想像に難くないのではないでしょうか?
修行のあり方であっても、人から貰ったものばかりで自分の修練、思考、意志を放棄していると、知識だけ幾ら増えてもいざという時の胆力は形成されないのと同じだと感じます。
原文と書き下し
千金方云、夫養生也者欲使習性成、成自為善、不習無利也。性既自善内外、百病皆悉不生禍乱災害、亦無由作。此其養生之大経也。
千金方に云う。それ養生なる者は、習いて以て性とならしめんと欲す。成れば自ら善を為す。習わざれば利なきなり。既に自ら内外に善ければ、百病皆悉く生ぜず、禍乱災害も亦た、作るに由なし。これその養生の大経なり。
蓋養性者、時則治未病之病其義也。故養性者不但餌藥食霞、其在魚於百百行行周備雖、絶薬餌之以遐年徳行不充縦玉酒金丹未能延寿
蓋し性を養うとは、則ち未だ病まざるの病を治むる、その義なり。故に性を養う者は、但に餌藥食霞するのみにあらず、それ百百の行を兼ねるにあり。行、周く備われば、薬餌を絶つと雖も、以て過年するに足れり。徳行充たざれば、縦え玉酒金丹たりとも、未だ寿を延ぶる能わず。
故老子曰善摂生者陸行不畏兕、此則道徳之祐也。豈假服餌而祈遐年哉。
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