この篇には、臓腑・経絡それぞれの気血の多寡と、身体と精神の状態によって生じやすい病を中心として記述されている。
最初には、まずは各臓腑・経絡の気血の多少について記載されている。
これを経絡の気血の多少としている意訳がほとんどであるが、気血がダイナミックに移動する場として、腑は袋で臓はその中身とする空間的に考えてみるのも,ひとつの視点としてよいのではないかと思う。
ひとつのものを、表裏の二つに分けて記載されているが、これをもう一度ひとつのものとして眺めてみると、表裏関係だと陰陽の調和がとれていて、陽明・太陰の表裏関係だけが他に比較して多血であることが分かる。
太陽・多血少気―少陰・少血多気
少陽・少血多気―厥陰・多血少気
陽明・多血多気―太陰・少血多気
これは、先天腎の元気よりも後天脾胃の元気の優位性を示しているものではないかと、筆者は考える。
つまり先天の元気が弱くとも、後天の元気を培えば、元気で長命を保つことができるという、明の張介賓(1563-1640)の考えとも一致する。
また李東垣(1180-1251)の「脾胃論」の重要性を裏打ちしているとも考えられる。
結局は、内経医学で最も重要視されている、「胃の気」の存在を改めて浮かび上がらせたものと、筆者は認識している。
また身体と精神的な状態の組み合わせによって生じる病が記されており、大変面白く読んだ。
心身ともに過労に陥ってはならないが、さりとて安逸に過ごしても病となるのである。
では、どのような在り様がいいのか。
答えはやはり冒頭の、上古天真論篇第一にあり、以下のように記されている。
「上古の人、其の道を知る者は、陰陽に法り、術數に和し 食飮に節有り、起居に常有り、 妄り
に勞を作さず。故に能く形と神を倶え、而して盡く其の天年を終え、百歳を度えて乃ち去る。」
また興味深いことに背部兪穴に関しては、穴名は霊枢での記載は左右対称で同名であるが、この篇では左肝兪、右脾兪と記載されている。ここには、大きな意味が込められている。
臨床において、背部兪穴の肝兪、胆兪の左右によって、刺鍼後の他の背部兪穴の反応変化の違いに気づいていたのだが、あえて左を肝兪、右を脾兪としたことの意味は、非常に深いものがあると筆者は考えている。
左は気の病で、右は血の病であるとされている。
さらには左右は陰陽の道路であり、自然界の陽気は、東(左)から上り、西(右)に下がる。
天人合一として観るならば陽気は、左より上り、右より下がる。
人体において左右を主る肝胆の肝の臓象は、左三葉、右四葉である。
これらを総合して観れば、同じ左右の背部兪穴であっても、刺鍼した経穴以外、つまり刺鍼部位より上位と下位の穴の反応範囲と、反応の仕方を観察すると、驚く結果が得られると筆者は実感している。
日本では腹診術が発展したが、背部兪穴を点と面として捉えてその変化を追いかけると、意外なものが見えてくる。
ピンと来られた方は、是非追試して観察して頂きたい。
さらにこのことは、難経脈診における六部定位に、五臓が配当されていることとも、つながっていると考えている。
ただし、六部定位の五臓の配当を、絶対的なものとしてしまうと対象を正確に認識できないと筆者は考えている。
どちらかといえば、そのような傾向にある場合がある、というくらいのニュートラルな認識感覚こそが、あらゆる事象と関係しながら変化する人間を正確に捉えることが可能だと考えている。
短い内容の篇ではあるが、中身は非常に示唆に富んだ深いものがある。
最初には、まずは各臓腑・経絡の気血の多少について記載されている。
これを経絡の気血の多少としている意訳がほとんどであるが、気血がダイナミックに移動する場として、腑は袋で臓はその中身とする空間的に考えてみるのも,ひとつの視点としてよいのではないかと思う。
ひとつのものを、表裏の二つに分けて記載されているが、これをもう一度ひとつのものとして眺めてみると、表裏関係だと陰陽の調和がとれていて、陽明・太陰の表裏関係だけが他に比較して多血であることが分かる。
太陽・多血少気―少陰・少血多気
少陽・少血多気―厥陰・多血少気
陽明・多血多気―太陰・少血多気
これは、先天腎の元気よりも後天脾胃の元気の優位性を示しているものではないかと、筆者は考える。
つまり先天の元気が弱くとも、後天の元気を培えば、元気で長命を保つことができるという、明の張介賓(1563-1640)の考えとも一致する。
また李東垣(1180-1251)の「脾胃論」の重要性を裏打ちしているとも考えられる。
結局は、内経医学で最も重要視されている、「胃の気」の存在を改めて浮かび上がらせたものと、筆者は認識している。
また身体と精神的な状態の組み合わせによって生じる病が記されており、大変面白く読んだ。
心身ともに過労に陥ってはならないが、さりとて安逸に過ごしても病となるのである。
では、どのような在り様がいいのか。
答えはやはり冒頭の、上古天真論篇第一にあり、以下のように記されている。
「上古の人、其の道を知る者は、陰陽に法り、術數に和し 食飮に節有り、起居に常有り、 妄り
に勞を作さず。故に能く形と神を倶え、而して盡く其の天年を終え、百歳を度えて乃ち去る。」
また興味深いことに背部兪穴に関しては、穴名は霊枢での記載は左右対称で同名であるが、この篇では左肝兪、右脾兪と記載されている。ここには、大きな意味が込められている。
臨床において、背部兪穴の肝兪、胆兪の左右によって、刺鍼後の他の背部兪穴の反応変化の違いに気づいていたのだが、あえて左を肝兪、右を脾兪としたことの意味は、非常に深いものがあると筆者は考えている。
左は気の病で、右は血の病であるとされている。
さらには左右は陰陽の道路であり、自然界の陽気は、東(左)から上り、西(右)に下がる。
天人合一として観るならば陽気は、左より上り、右より下がる。
人体において左右を主る肝胆の肝の臓象は、左三葉、右四葉である。
これらを総合して観れば、同じ左右の背部兪穴であっても、刺鍼した経穴以外、つまり刺鍼部位より上位と下位の穴の反応範囲と、反応の仕方を観察すると、驚く結果が得られると筆者は実感している。
日本では腹診術が発展したが、背部兪穴を点と面として捉えてその変化を追いかけると、意外なものが見えてくる。
ピンと来られた方は、是非追試して観察して頂きたい。
さらにこのことは、難経脈診における六部定位に、五臓が配当されていることとも、つながっていると考えている。
ただし、六部定位の五臓の配当を、絶対的なものとしてしまうと対象を正確に認識できないと筆者は考えている。
どちらかといえば、そのような傾向にある場合がある、というくらいのニュートラルな認識感覚こそが、あらゆる事象と関係しながら変化する人間を正確に捉えることが可能だと考えている。
短い内容の篇ではあるが、中身は非常に示唆に富んだ深いものがある。
原 文 意 訳
経絡を流れている気血の偏りは、人により様々でありますが、基準となる健康人の尺度がございます。
太陽は常に、多血少気。
少陽は常に、少血多気。
陽明は常に、多血多気。
少陰は常に、少血多気。
厥陰は常に、多血少気。
太陰は常に、少血多気。
これらは、天の基準でもあります。
足太陽と少陰。
足少陽と厥陰。
足陽明と太陰。
これらは表裏関係で一対でありまして、足の陰陽であります。
手太陽と少陰。
手少陽と心主。
手陽明と太陰。
これらもまた、表裏関係で一対でありまして、手の陰陽であります。
今手足の陰陽の経絡の異常を察知致しまして、おおよそ、その治療に際しましては、必ず最初に鬱滞している血絡を瀉血などの方法で取り去りまして、まずは経絡の異常を取り去ります。
そうしましてから体全体の気の偏在を伺いまして、その後さらに邪気が有余しておりましたらこれを瀉し、正気が不足しておるようでしたらこれを補うのであります。
背部の兪穴の位置を知ろうと思いましたら、まず一本目の草で両乳の間を計りまして、これを半分のところで折ります。次いで二本目の草を用いまして一本目の中折にした長さに切り揃えます。
そうしまして1本目の中折にしたものと二本目とを用いまして、正三角形を作ります。
これを用いまして背部兪穴の位置を計るのでありますが、三角形の頂点を大椎穴にあてがいまして、下の両隅に当たる所が肺兪となります。
同様にして、さらに頂点をひとつ下げ、下の両隅に当たる所が心兪となります。
さらに頂点をひとつ下げまして、下の左の角は肝兪、右の角は脾兪となります。
さらに頂点をひとつ下げますと、下の両隅は腎兪となります。これを五臓の兪穴でありまして、灸刺する基準であります。
肉体は安逸に過ごし、精神的に過労でありましたら、病は経脉に生じます。これを治するには、鍼灸が適応いたします。
心身ともに安逸に過ぎると、栄養過多となりまして、病は肉に生じます。これを治するには、気の鬱滞には鍼を用い、膿血が鬱滞するものには砭石(へんせき)が適応いたします。
肉体的疲労が過度であるが、精神的には屈託がない場合、病は筋に生じます。これを治するには、膏薬などを貼ったり、導引などの身体を伸びやかに緩める運動が適応いたします。
心身ともに過労に過ぎますと、病は咽喉に生じて飲食を摂ることもできなくなります。これを治するには百薬を用いて物質的に補う、薬物治療が適応いたします。
身体がハッと驚くようなことや恐れ慄(おのの)くことが度々続きますと、経絡が通じなくなりまうので、感覚・知覚異常の病が生じます。これを治するには按摩術で経絡を通じさせ、薬酒で気血を補って通じさせる治療が適応いたします。
以上、これを五形志と言うのであります。
これらのことを踏まえまして、経絡に鍼をする際においては、以下のことに気をつけなくてはなりません。
多血多気の陽明を刺す場合、気血共に出してよい。
多血少気の太陽を刺す場合、血は出してもよいが、気を損うことに留意しなければなりません。
少血多気の少陽を刺す場合、気は出してもよいが、血を損うことに留意しなければなりません。
少血多気の太陰を刺す場合は、気は出してもよいが、血を損うことに留意しなければなりません。
少血多気の少陰を刺す場合は、気は出してもよいが、血を損うことに留意しなければなりません。
多血少気の厥陰を刺す場合は、血は出してもよいが、気を損うことに留意しなければなりません。
原文と読み下し
夫人之常數.太陽常多血少氣.少陽常少血多氣.陽明常多氣多血.少陰常少血多氣.厥陰常多血少氣.太陰常多氣少血.此天之常數.
夫れ人の常數、太陽は常に多血少氣、少陽は常に少血多氣、陽明は常に多氣多血、少陰は常に少血多氣、厥陰は常に多血少氣、太陰は常に多氣少血なり。此れ天の常數なり。
足太陽與少陰爲表裏.少陽與厥陰爲表裏.陽明與太陰爲表裏.是爲足陰陽也.
手太陽與少陰爲表裏.少陽與心主爲表裏.陽明與太陰爲表裏.是爲手之陰陽也.
今知手足陰陽所苦.凡治病.必先去其血.乃去其所苦.伺之所欲.然後寫有餘.補不足.
足太陽と少陰は表裏と爲し、少陽と厥陰は表裏と爲し、陽明と太陰は表裏と爲し、是れ足の陰陽を爲すなり。
手太陽と少陰は表裏と爲し、少陽と心主は表裏と爲し、陽明と太陰は表裏と爲し、是れ手の陰陽を爲すなり。
今手足の陰陽の苦しむ所を知る。凡そ病を治するに、必ず先ず其の血を去り、乃ち其の苦しむ所を去り、この欲する所を伺い、然る後に有餘を寫し、不足を補う。
欲知背兪.先度其兩乳間.中折之.更以他草度.去半已.即以兩隅相拄也.
乃擧以度其背.令其一隅居上.齊脊大椎.兩隅在下.當其下隅者.肺之兪也.
復下一度.心之兪也.
復下一度.左角肝之兪也.右角脾之兪也.
復下一度.腎之兪也.
是謂五藏之兪.灸刺之度也.
背兪を知らんと欲せば、先ず其の兩乳の間を度(はか)り、これを中折す。更に他草を以て度り、半を去りて已(や)む。即ち兩隅を以て相拄(ささえ)るなり。
乃ち擧げて以て其の背を度る。其の一隅をして上に居らし、脊の大椎に齊(ひと)しくし、兩隅を下に在らしむる。其の下隅に當たる者は、肺の兪なり。
復た下ること一度は、心の兪なり。
復た下ること一度は、左角は肝の兪なり。右角は脾の兪なり。
復た下ること一度は、腎の兪なり。
是れを五藏の兪と謂う。灸刺の度なり。
形樂志苦.病生於脉.治之以灸刺.
形樂志樂.病生於肉.治之以鍼石.
形苦志樂.病生於筋.治之以熨引.
形苦志苦.病生於咽嗌.治之以百藥.
形數驚恐經絡不通.病生於不仁.治之以按摩醪藥.是謂五形志也.
形樂しみ志苦くるしむは、病は脉に生ず。これを治するは灸刺を以てす。
形樂しみ志樂しむは、病は肉に生ず。これを治するは鍼石を以てす。
形苦しみ志樂しむは、病は筋に生ず。これを治するは熨(ひのし)と引を以てす。
形苦しみ志苦しむは、病は咽嗌(いんえき)に生ず。これを治するに百藥を以てす。
形數(しば)しば驚恐し、經絡通ぜざれば、病は不仁を生ず。これを治するに按摩醪藥(ろうやく)をもってす。是れを五形志と謂うなり。
刺陽明.出血氣.
刺太陽.出血惡氣.
刺少陽.出氣惡血.
刺太陰.出氣惡血.
刺少陰.出氣惡血.
刺厥陰.出血惡氣也.
陽明を刺すは、血氣を出す。
太陽を刺すは、血を出し氣を惡む。
少陽を刺すは、氣を出し血を惡む。
太陰を刺すは、氣を出し血を惡む。
少陰を刺すは、氣を出し血を惡む。
厥陰を刺すは、血を出し氣を惡むなり。
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