鍼灸医学の懐

痹論篇第四十三.

 
近くの石垣で目に留まった、名知らずの雑草?
 
 筆者は、痹論には特別な思い入れがある。
 
 筆者が平成元年に開業して間もないころ、いわゆる関節リュウマチで鍼灸院を訪れる患者が比較的多かった。  が、しかし治療所に訪れたリウマチ患者の願いに反して、ことごとくが治らなかった。
 
 当時、志は高く口は立ったが、それに対して情けないほど腕の無さを痛感する時期となった。
 
 そんな中、良くなって来たな・・・と思っていた患者が、新たに引いた風邪をきっかけに、本篇に記載されている肺痹となった。
 
 日を追うごとに病態は悪化し、しかも患者は病院に行かずに筆者の元に毎日のように通ってくる。
 
 筆者には、術が無く追い詰められたかのような気持ちになり、毎夜眠れない日が続いた。
 
 そしてある日、黒く変色した舌診所見で筆者の限界を感じ、患者に頭を下げ、病院を受診するようお願いした。
 
 幸い一命は取りとめたが、患者は視力を失った。
 
 家人に手を引かれた姿を見た時の、筆者の心の衝撃は今もなお鮮明に生きている。  このような場合、もっと早く他院に送るべきとの意見もあろうかと思う。  しかし筆者は、患者が寄せてくる信頼の思いに、今自分の持てるもので精いっぱい応えようと奮闘した結果である。  今であれば、なんなく治めることができるが、このような患者に、筆者は育ててもらったのだと、感謝の思いと共に、取ろうとしても取りようのない責任を、今も感じている。  <言不可治者、未得其術也>    「治すべからざると言うは、未だその術を得ざるなり」  治らないということは、まだ術が自分のものとなっていないからである。  霊枢、九鍼十二原論の一節である。
 
 以後、当時まだ中医書がまだ一般に出回っていない時代に、簡体字で書かれた「痹病論治学 人民衛生出版」を輸入業者から探し求め、辞書を片手に読み始めたが、それでも自分の中にしっくりと来るものが無かった。
 
 しっくりと来ないまま、臨床を続けるのは、苦しみ以外のなにものでもない。暗中模索とは、このことであると実感した。
 そんな長く苦しい時期を経て、やっとしっくりと来るものが見えてきたのは、ようやくここ10数年来のことである。
 
 本篇の痹病は、なにも関節リュウマチだけでなく、膠原病など自己免疫疾患。また感覚麻痺やしびれやを伴う疾患など、その他多くの疾患に対して応用が可能である。
 
 興味深いことに、関節リュウマチで訪れる患者の中には、いわゆる風邪症状を自覚した後に発症した、という方が結構存在しているということである。
 また本疾患の患者に限ったことではないが、天候の変化に対し、自分の症状変化を察知して的確に予知することができるのも、これもまた妙であるが、この篇を通読すれば納得がいく。  中医学でいうところの、「同気相求」である。
 
 筆者の認識では、痹病に限らず、弁証による論治は目安にはなるが、論治だけでは治すことは難しい。これは中医学に対する筆者の認識である。  やはり、認識論の基礎である八綱概念を念頭に、実際の患者の全身を、丹念に、丁寧に実際に触れ、気の偏在を具体的に把握するのが第一である。  「患者の身体は、いったい何を表現しているのか」  このような視点で、術者の心に映るものが無いと、やはり治療は難しいというのが筆者の実感する所である。
 
 <陰氣者.靜則神藏.躁則消亡.>
 陰氣なる者は、靜なれば則ち神藏し、躁なれば則ち消亡す。
 本篇中のこの文言は、金科玉条である。
 この文言にハッと気がついてから、これはなにも痹病にだけのことではなく、あらゆる病に通じることであると知った。
 現代人のいわゆる関節リュウマチは、心神不寧の長期化に伴う心血虚を伴っている場合が多い。
 だが、中医学でいう心血虚の症候は見られない。  また風論に述べられている通り、風邪(ふうじゃ)は百病の長である。  肝気が鬱すれば、風邪は退かないのである。  筆者は、心肝が目付どころと考えている。  人の心までをも如実に表現している、患者の身体を通じてそのように実感するからである。
 まことに以て古典は、尊いものである。  ちなみに、一般的にと卑を混同して用いられている場合が多く見受けられるが、病態が正しく表現されていない。正しくは、畀→痹であることを付記しておく。
 
 
 
 
 
原 文 意 訳
 
 
 黄帝が申された。
 は、どのような病理で生じるのであろうか。
 岐伯がこれに対して申された。
 風寒湿の三気がまじりあって身体を侵し、を生じるのであります。
 三気の内、風気が強いものは、痛む部位が移動する行となり、寒気が強いものは激しく痛む痛となり、湿気が強いものは痛む部位が固定する著痺となります。
 帝が申された。
 なるほど。では五というものがあるが、それはどのようなものなのか。
 岐伯が申された。
 風寒湿の邪気がそれぞれ勝ったの種別は三種類でありますが、邪気が人体を侵す時期によって、また五に分けることができるのであります。
 すなわち、冬に邪を得ると骨、春に邪を得ると筋、夏に邪を得ると脉、夏の土用の至陰に邪を得ると肌、秋に邪を得ると皮と、分類して認識することができます。
帝が申された。
 これら風寒湿の邪気が、五臓六腑にまで深く入り込み、舍ってしまうことがあるが、何の気がそのようにさせるのであろうか。
 岐伯が申された。
 五臓にはそれぞれの気が合するところがあります。
 病となって邪が退かずに長引きますと、合しているその部位から内部の五藏に伝わり、以下に述べますように各五臓に舍るようになるのであります。
 骨が治らないうちに、再び邪に侵されると、五藏の腎に舍ります。
 筋が治らないうちに、再び邪に侵されると、五藏の肝に舍ります。
 脉が治らないうちに、再び邪に侵されると、五藏の心に舍ります。
 肌が治らないうちに、再び邪に侵されると、五藏の脾に舍ります。
 皮脾が治らないうちに、再び邪に侵されると、五藏の肺に舍ります。
 いわゆると申しますは、それぞれ五臓の旺する時期に、風寒湿の邪気に重ねて侵されたことによるものであります。
 おおよそ、が五臓に居座った場合の症状を申し上げます。
 肺の症状は、胸がもやもやと落ち着かず胸がいっぱいになり、苦しくなるので喘ぎ、吐きます。
 心の症状は、脉に気血が通じなくなり、胸がもやもやと落ち着かなくなると同時に、心下が詰まり、その部位に動悸を打ちます。  その上突然気が突き上がってくると喘ぐようになり、喉が乾いてゲップがでます。
 さらに厥気が上ると、心神を脅かしますので神気が安定せず、恐れの感情を現すようになります。
 肝の症状は、夜床に就いても気が昂ぶりハッとして驚きやすく、水をたくさん飲んで何度も小便に行くようになります。
 さらにあたかも妊娠しているかのように、次第に下腹部が上に引っ張られ膨満します。
 腎の症状は、よく脹満を来し、うずくまったまま立つことができないので尻が踵から離すことができません。
 さらに頭が本来の背骨の高さよりも下がり、背中も丸まって伸びなくなります。
 脾症状は、手足が無力となってだらりと垂れ下がり、咳をすると胃液を吐き、胸がひどく塞がったかのようになります。
 腸の症状は、度々水を飲む割に小便に行ってもあまり出なく、飲水と中気があわただしく争いますので、時には小便に行くはずの飲水が腸に走って下痢を起こすことがあります。
 胞の症状は、下腹部の膀胱付近を按じると、中の方で痛むようであり、小便は熱い湯のように感じ、鼻からは水様性の鼻水が出ます。
 陰気と申しますは、本来の性質の静でありますと、神気は治まり各藏に蔵されるものです。
 それに反して躁でありますと、治まる所を失って散ってしまい、終には消えて亡くなります。そのような状態で飲食を重ねますと、腸胃は次第に障害されその機能も低下してきます。
 淫気と申しますは、邪が深く入り込み、しかも長期間ひつこく居座る、たちの悪い邪気のことであります。
 その淫気による喘息は、すでにの中心が肺に在ります。
 その淫気によって憂思の情が止み難いのは、すでにの中心が心に在ります。
 その淫気によって小便がもれてしまう遺溺は、すでにの中心が腎に在ります。
 その淫気により気力も体力も尽きてしまったかのようになる乏竭(ぼうけつ)は、すでにの中心が肝に在ります。
 その淫気によって肌の色・張り・艶が無くなる肌絶は、すでにの中心が脾に在ります。
 これら諸々のが治らないと、次第に内部に入り込んで盛んとなるものであります。
 しかしながら風寒湿の邪気の内、風邪が中心の場合は、比較的治りやすいのであります。
 帝が申された。
 病に罹り、時に死亡する者、疼痛が慢性化した者、また比較的容易に治る者などがいるが、それは一体どのような訳であろうか。
 岐伯が申された。
 病邪が直接臓に入りますと、死亡いたします。
 病邪が筋骨の間に連なる様に留まる場合、疼痛は長引くのであります。
 その病邪が、正気に阻まれて深く侵入することができず、体表のごく浅い皮膚にあるようですと、比較的治りやすいのであります。
 帝が申された。
 その病邪が六腑に舍るのは、どのような訳であろうか。
 岐伯が申された。
 これもまた同様に、飲食の不摂生、住居の不適切がこの病の根本原因となるのであります。
 六腑にもまた五藏と同じく兪穴がございます。
 その兪穴に風寒湿の邪気が中り、飲食の不摂生で正気が弱っていると兪穴から侵入し、やがて六腑に舍るようになるのであります。
 帝が申された。
 鍼を以てこれを治療するには、どのようにすればよいのであろうか。
 岐伯が申された。
 五藏にはそれぞれ兪穴があり、六腑には合穴があります。
 それに応じて分かれている経絡を手で探り、邪気を発するところを探し出します。
 そしてそれに従って補瀉の手を加えますと、病は治るのであります。
 帝が申された。
 栄衛の気もまた、人に病を起こさせるのであろうか。
 岐伯が申された。
 栄気と申しますは、水穀の精気でありまして、これによって五臓は調和を保ち、六腑は潤いを得ることができます。
 また栄気は脉に入り気血となって全身を養いますれば、栄気は経絡を通じて上下し、五藏を貫き六腑を絡うことになります。
 衛気と申しますは、水穀中の強く荒々しく、しかも猛々しい悍気(かんき)のことであります。
 しかも衛気は、慓疾滑利でありまして、潤滑に素早く瞬時に動くという性質を有しております。
 したがいまして、衛気は皮膚中や筋間を循り、五藏を包んでいる肓膜を温め、胸腹に広く散じてその機能を全うしています。  ところが、何らかの原因で、その気が逆流しますと病みますが、順調に循れば病であったとしても癒えるのであります。
 ですから衛気が順調に循り、風寒湿の邪気を合することが無ければ、病とはならないのであります。
 帝が申された。
 なるほど、よく理解できた。  痹病であっても、痛んだり痛まないもの、不仁(ふじん)であったりまた寒であったり熱であったり、さてまた燥であったり湿であったりと、その病態は様々であるが、その理由はどのようであるのか。
 岐伯が申された。
 病で痛むものは、風寒湿の内の、寒気が多いが故であります。
 病であるのに、痛みは無く感覚を失う不仁となるものは、病となってから慢性化したものでありまして、それに従って邪気もまた深く入り込んだがためにであります。
 すると栄衛の気の流れもまた次第に渋り、時に経絡相互の関係に不調和を来し、通じなくなりますますので、皮膚の感覚機能も失調し、不仁となるのであります。
 痹病で寒するものは、元々の素体として陽気少、陰気多であるところに、三邪気の寒邪が加わりますので、寒となるのであります。
 痹病で熱するものは、同様に素体として陽気多、陰気少であるところに、三邪気が加わりますと、邪気と激しく抗争し、邪気が勝って退きませんと熱となるのであります。
 痹病で汗多く、肌表が常に濡れているものは、湿気が湿邪として感応する確率が高くなります。  このような者の素体は、陽気少、陰気多でありますので、風寒湿の内、湿邪が加わりますと、全身が濡れるような汗が多く出るのであります。
 帝が申された。
 病であっても、痛まないものがいるが、どのような訳であろうか。
 岐伯が申された。
 が骨に在りますと、全身が重くなります。
 脉に在りますと、血は凝滞して流れなくなります。
 筋に在りますと、屈したまま伸びなくなります。
 肉に在りますと、感覚麻痺である不仁となります。
 皮にありますと、寒となります。
 したがいまして、これらの五者は、それぞれの場に単に留まっているだけなので、身体の不調はあっても、痛まないのであります。
 しかしながら、先に述べましたように、重ねて邪に侵されますと様相は一変いたします。
 一般的に病は、寒邪に逢いますと引きつりますが、熱に逢いますと緩むものであります。
 帝が申された。  なるほど、あい分かった。
原文と読み下し
黄帝問曰.痹之安生. 岐伯對曰. 風寒濕三氣雜至.合而爲也. 其風氣勝者.爲行.寒氣勝者.爲痛.濕氣勝者.爲著也. 黄帝問いて曰く。痹はこれ安(いずくん)ぞ生ずるや。 岐伯對して曰く。 風寒濕の三氣雜(まじわ)り至り、合して痹と爲るなり。 其の風氣勝つ者は、行痹と爲り、寒気勝つ者は、痛痹と爲り、湿気勝つ者は、著痺と爲る。 帝曰.其有五者.何也. 岐伯曰. 以冬遇此者.爲骨.以春遇此者.爲筋.以夏遇此者.爲脉.以至陰遇此者.爲肌.以秋遇此者.爲皮 帝曰く。其の五有る者は、何なるや。 岐伯曰く。 冬に以て此れに遇う者は骨痹と爲り、春に以て此れに遇う者は筋痹と爲り、夏に以て此れに遇う者は脉痹と爲り、至陰に以て此れに遇う者は肌痹と爲り、秋に以て此れに遇う者は皮痹と爲る。 帝曰.内舍五藏六府.何氣使然. 岐伯曰. 五藏皆有合.病久而不去者.内舍於其合也. 不已.復感於邪.内舍於腎. 不已.復感於邪.内舍於肝. 不已.復感於邪.内舍於心. 不已.復感於邪.内舍於脾. 不已.復感於邪.内舍於肺. 所謂者.各以其時.重感於風寒濕之氣也. 帝曰く。内は五藏六府に舎るは、何の氣の然らしむるや。 岐伯曰く。 五藏に皆合有り。病久しくして去らざる者は、内りてその合に舍るなり。 故に 骨痹已まず、復た邪に感ずれば、内りて腎に舍す。 筋痹已まず、復た邪に感ずれば、内りて肝に舍す。 脉痹已まず、復た邪に感ずれば、内りて心に舍す。 肌痹已まず、復た邪に感ずれば、内りて脾に舍す。 皮痹已まず、復た邪に感ずれば、内りて肺に舍す。 所謂痹なる者は、各おのその時を以て、風寒濕の氣に重感するなり。 之客五藏者. 者.煩滿喘而嘔. 者.脉不通.煩則心下鼓.暴上氣而喘.乾善噫.厥氣上則恐. 者.夜臥則驚.多飮數小便.上爲引如懷. 者.善脹.尻以代踵.脊以代頭. 者.四支解墮.發嘔汁.上爲大塞. 者.數飮而出不得.中氣喘爭.時發 者.少腹膀胱按之内痛.若沃以湯.澀於小便.上爲清涕. 凡そ痹の五藏に客する者は、 肺痹は、煩滿して喘ぎて嘔す。 心痹は、脉通ぜず、煩すれば則ち心下鼓す。暴(にわか)に上氣して喘ぎ、嗌乾して善く噫す。厥氣上れば則ち恐す。 肝痹は、夜臥すれば則ち驚し、多飮して數しば小便す。上りて引を爲すこと懷の如し。 腎痹は、善く脹し、尻を以て踵に代(かわ)り、脊を以て頭に代る。 脾痹は、四支解墮し、欬を發し汁を嘔す。上は大いに塞を爲す。 腸痹は、數しば飮して出るを得ず、中氣喘爭して、時に飧泄を發す。 胞痹は、少腹膀胱これを按ずれば内痛む。沃(そそ)ぐに湯を以てするが若し、小便澀(しぶ)り、上は清涕を爲す。 陰氣者.靜則神藏.躁則消亡.飮食自倍.腸胃乃傷. 淫氣喘息.聚在肺. 淫氣憂思.聚在心. 淫氣遺溺.聚在腎. 淫氣乏竭.聚在肝. 淫氣肌絶.聚在脾. 不已.亦益内也.其風氣勝者.其人易已也. 陰氣なる者は、靜なれば則ち神藏し、躁なれば則ち消亡す。飮食自ずから倍すれば、腸胃は乃ち傷る。 淫氣喘息すれば、痹聚まりて肺に在り。 淫氣憂思すれば、痹聚まりて心に在り。 淫氣遺溺すれば、痹聚まりて腎に在り。 淫氣乏竭すれば、痹聚まりて肝に在り。 淫氣肌絶すれば、痹聚まりて脾に在り。 諸痹已まざれば、亦た益ます内れるなり。其の風氣勝つ者は、其の人已み易きなり。 帝曰.其時有死者.或疼久者.或易已者.其故何也. 岐伯曰. 其入藏者死. 其留連筋骨間者.疼久. 其留皮膚間者.易已. 帝曰く。痹其れ時に死する者、或いは疼(うず)き久しき者、或いは已え易き者あり。其の故は何なるや。 岐伯曰く。 其れ藏に入る者は死す。 其れ筋骨の間に留連する者は、疼き久し。 其れ皮膚の間に留る者は、已易し。 帝曰.其客於六府者.何也. 岐伯曰.此亦其食飮居處.爲其病本也.六府亦各有兪.風寒濕氣中其兪.而食飮應之.循兪而入.各舍其府也. 帝曰く。其れ六府に客する者は、何んぞや。 岐伯曰く。此れ亦た其の食飮居處、其の病の本と爲す。六府も亦た各おの兪有り。風寒濕氣其の兪に中り、しかして食飮これに應じ、兪を循りて入り、各おの其の府に舎るなり。 帝曰.以鍼治之奈何. 岐伯曰.五藏有兪.六府有合.循脉之分.各有所發.各隨其過.則病也. 帝曰く。鍼を以てこれを治すること奈何にするや。 岐伯曰く。五藏兪有り、六府に合有り、脉の分を循り、各おの發する所有り。各おのその過ぎるに隨えば、則ち病瘳(いゆ)るなり。 帝曰.榮衞之氣.亦令人乎. 岐伯曰. 榮者.水穀之精氣也.和調於五藏.灑陳於六府.乃能入於脉也. 故循脉上下.貫五藏.絡六府也. 衞者.水穀之悍氣也.其氣慓疾滑利.不能入於脉也.故循皮膚之中.分肉之間.熏於肓膜.散於胸腹.逆其氣則病.從其氣則愈.不與風寒濕氣合.故不爲 帝曰く。榮衞の氣、亦た人をして痹ならしめるや。 岐伯曰く。 榮なる者は、水穀の精氣なり。五藏を和調し、六府を灑陳(さいちん)すれば、乃ち能く脉に入るなり。 故に脉を循りて上下し、五藏を貫き、六府を絡うなり。 衞なる者は、水穀の悍氣なり。其の氣は慓疾滑利にして、脉に入ること能わざるなり。故に皮膚の中、分肉の間を循り、肓膜を熏じ、胸腹に散ず。逆すれば其の氣は則ち病む。從えば其の氣は則ち愈ゆ。風寒濕の氣と合せず。故に痹を爲さず。 帝曰善.或痛.或不痛.或不仁.或寒或熱.或燥或濕.其故何也. 岐伯曰. 痛者.寒氣多也.有寒故痛也. 其不痛不仁者.病久入深.榮衞之行.經絡時疏.故不通.皮膚不營.故爲不仁. 其寒者.陽氣少.陰氣多.與病相益.故寒也. 其熱者.陽氣多.陰氣少.病氣勝.陽遭陰.故爲熱. 其多汗而濡者.此其逢濕甚也.陽氣少.陰氣盛.兩氣相感.故汗出而濡也. 帝曰く、善し。痹或いは痛み、或いは痛まず、或いは不仁し、或いは寒し、或いは熱し、或いは燥し、或いは濕す。其の故は何なるや。 岐伯曰く。 痛なる者は、寒氣多きなり。寒有るが故に痛むなり。 其の痛まずして不仁する者は、病久しくして深く入り、榮衞の行り濇(しぶ)りて、經絡時に疏なり。故に通ぜずして、皮膚營まず。故に不仁を爲す。 其の寒なる者は、陽氣少なく、陰氣多し。病と相い益す。故に寒するなり。 其の熱する者は、陽氣多く、陰氣少なし。病の氣勝る。陽は陰に遭う。故に痹熱と爲る。 其の多汗にして濡れる者は、此れ其の濕に逢うこと甚だしきなり。陽氣少なく、陰氣盛ん。兩氣相い感ず。故に汗出でて濡るなり。 帝曰.夫之爲病.不痛何也. 岐伯曰. 在於骨.則重. 在於脉.則血凝而不流. 在於筋.則屈不伸. 在於肉.則不仁. 在於皮.則寒. 故具此五者.則不痛也. 之類.逢寒則急(蟲).逢熱則縱. 帝曰善. 帝曰く。夫れ痹の爲す病たるや、痛まざるは何なるや。 岐伯曰.く。 骨に在れば、則ち重し。 脉に在れば、則ち血凝りて流れず。 筋に在れば、則ち屈して伸びず。 肉に在れば、則ち不仁す。 皮に在れば、則ち寒す。 故に此の五を具(そな)うる者は、則ち痛まざるなり。 凡そ痹の類、寒に逢えば則ち急(蟲)し、熱に逢えば則ち縱(ゆる)む。 帝曰く、善し。 ※甲乙経に倣い、蟲を急に作る

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