鍼灸医学の懐

離合真邪論篇第二十七.

 黄帝内経の著された時代と現代の病の相違を考えると、本文中の邪が、内生的なもので無く、多く外からやってくるものとして記載されている事から、当時は圧倒的に外邪による発病が多かった事が容易に知ることができる。
 
 
 後漢に著された傷寒雑病論は、現代で言うところの腸チフスに対処したものである。
 
 してみると、当時は住居・衣服・飮食全ての衛生環境が、現代とはかけ離れた状態であった為、内傷病より外感病=感染症が圧倒的に多く、現代ではほとんど見られなくなった赤痢やコレラなどの重篤な感染症に、当時は鍼灸医学が対処して来たのだろうと確信を持って推測される。
 
 いまや大騒ぎとなっているインフルエンザも、当時から存在していた訳で、当然鍼灸医学の適応症である。
 
 社会設備の充実によって現代では、かつての時代のような重篤な外感病は見られなくなったが、反面、アレルギー疾患や癌などの内傷病が恐ろしい勢いで増加している。
 
 傷寒雑病論が、内傷病に応用・対処できるように、内経に外感病として描かれた気の構図を読み取れば、一般雑病、つまり内傷病への応用は可能である。
 
 現に、歴代の医家はそのようにして、鍼灸医学を発展させて来たのである。
 
 そのためには、天地陰陽の法を我がものとし、患者の訴える症状や痛む局所に囚われず、病の本質である気の遍在を的確に捉え、一鍼を下さなくてはならない。
 
 この篇では、このことを強く我々鍼灸家に訴えかけているように感じる。
 
 
 
 
 
原 文 意 訳
 
 黄帝が問うて申された。
 余は九鍼九篇を聞いたが、夫子は各篇をさらに九篇にし、八十一篇にされた。余はことごとくその意味するところに精通した。
 
 その経では、気の盛衰や左右の気の偏在、上を刺して下を調え、左を差して右を調え、輸穴を用いて榮氣の有余は瀉し、不足は補うと説いている。余は、このことを承知している。
 
 しかしながら、これらはすべて栄衛の気の偏在によって生じた虚実のことであり、邪気が外から經に入った場合と異なるのではないか。
 
 余は、邪気が經にある場合、その病人の症状がどのようなものであるのか。そしてこの經に入った邪気を取り除くにはどのようにすればいいのかを、願わくば聞かせてもらいたいのだが。
 
 
 岐伯がその問いに対して申された。
 聖人が物事を計り論ずる基準を定めます場合には、必ず天地陰陽の法則に応じて定めるのであります。
 
さて、天には三百六十五度と二十八宿があり、地には十二の經水、つまり河川がありまして、人は經脉がございます。
 
 天地が温和でありましたなら、河川もまた安静であり、天が寒く地が凍りますと、河川の水もまた流れが滞って悪くなります。
 また天が暑く地が熱しますと、河川の水は沸き立って溢れるようになり、突然疾風が起きますと、河川の水も波打って龍のような竜巻が起きるのであります。
 
 邪が脉に入り、その邪が寒でありますれば血が滞り詰まり、暑でありますれば気は濁り湿を含むようになります。
身体の虚に乗じて虚邪が侵入し、居座るようになりますと、河川の水に風が当って波が起きるように、經の動脉に邪が至った時には竜巻のように隆起し、脉中を順々に伝え行くのであります。
 
 その変動が寸口に至って手に中る様は、時に大きく時に小さくなったりし、大きく感じるときは、邪が至った時で、小さく感じるときは邪が至っていないので、一時の平静が訪れているのであります。
 
 その邪の進行には、一定の進路がございません。ましてや邪が陰と陽の両方にまたがって存在しておりますと、邪が至る時期や進路は、予測不可能なのであります。
 
従いまして三部九候を注意深く察しながら診ていると、突然邪が現れて参りますので、この機を逃さず速やかにその進路を遮らなくてはなりません。
 
 患者の呼吸を注意深く観察し、まだ邪が至っていない時を見計らい、吸気時に鍼を刺入し患者の気とぶつかることがあってはなりません。その後静かに久しく置鍼して邪の集まり至るのを待ち、邪が好き放題に拡がらないよう留意します。
 
 さらに患者の吸気に合わせて鍼を捻り、邪をさらに集めるように致します。そして鍼下に邪が十分集まった頃合いを見計らい、患者の呼気に合わせて鍼を引いて体表に導き、患者が息を吐き切ったと同時に抜鍼するのであります。
 
このようにいたしますれば、正気が転じて成った盛んなる邪は、すべて出てしまうのであります。この手法を瀉法と申します。
 
 
黄帝が申された。
正気が不足している者を補うには、どのようにするのであろうか。
 
岐伯が申された。
必ず、まずは身体のあちこちをそっと撫でまわして気を巡らせ、手のひらを患者の身体にぴったりと付けて虚の部位を探し求めます。
 
虚の部位が定まりましたら、その部位の反応を推し量るように按じ、その反応を診ながらその部位を弾いて沈んでいる邪気を浮かび上がらせ、爪や指でしっかりと鍼を抓んで刺入し、正気が至り、邪が退いて通じるようになりましたら抜針いたします。
その際、気の出入りする門である皮膚の刺鍼部位をしっかりと押さえ閉じ、神気が漏れないようにしっかりと閉じるのであります。
 
さらに詳しく申さば、患者が息を吐き切ったその時に鍼を刺入し、静かに久しく置鍼して正気が集まり至るのを待つのであります。
それはあたかも貴人を待つときのように気を鎮め、日が暮れるのも忘れるくらいおっとりとした気持ちでその時を待つのであります。
 
正気が十分至りましたら、患者の状態に適うように見守り、吸気を候いながら抜鍼いたしますれば、正気は漏れることがありませんので、その穴所に正気が留まるのでございます。
そしてその穴所を押さえて蓋をし、神気をしっかりと温存させ、盛んなる正気を充実させるのであります。この手法を補法と申します。
 
 
 帝が申された。気を候うには、どのようにすればよいのか。
 
 岐伯が申された。
 邪と申しますものは、真気が弱りますと次第に深く入り込んでくるものであります。この点をしっかりと押えておくことが肝要でございます。
 
今、邪が絡を去って経脉に入り、血脉中に入ったばかりで、真気もまた弱っているために邪気とまともに相争うことが出来ず、病の性質としての寒温もわずかに変動するのみで定まらない状態と仮定いたします。
そしてそれは気まぐれにやってくる風に、河川の川面に波が立つようなものでありまして、常に変動している状態でございます。
 
 このような状態で、たまたま波が立ったかのように邪がやってきましたら、痛みや症状がわずかに現れて参りますので、そこに手を当て按じ、その部位に手をじっと当てて正邪・虚実の様子を候うのであります。たまたま激しく痛んだり症状がはっきりしたからといって、単純にこれを実と判断して寫してはなりません。
 
 真気と經氣は、同義語でございます。
当初申しましたように、元々經氣がはなはだ虚しているところに邪を受け、深く侵入を許したということが念頭に無いといけません。
 
まったけき実でございましたら、邪に逢えばこれを大いに寫すべきであります。
ですがこの場合、その来たるや逢うべからずと申しておりますのは、正邪の気を候い、その趨勢を見極めてから慎重に寫すということを意味して申しているのであります。
 
 邪の存在を候い認めながらも、真気との兼ね合いを詳細に把握せず、人間に備わっている宇宙の根源的な気がすでに衰退しているにもかかわらず、邪を寫しますと真気は脱して復することが出来なくなってしまいます。
そうなると、邪気は再びやって来てはびこるようになり、さらに身体の奥深くに沈みますので、病の源である邪気が益々深部に蓄えられるようになるのであります。
その往くは追うべからずとは、邪気が存在しているからといって、これを単純に寫してはならないということを意味して申しているのであります。
 
 挂(か)けくるに髪を以てすべからず、と申しますのは、鍼を握り邪が鍼下に至った瞬間に、髪の毛1本の入る隙間のない機で矢を放つように、鍼を発して寫することを形容して述べたものでございます。
 
 邪が至る前もしくは邪が去ってからなど、寫すべきタイミングを失すれば、血気は尽きて虚の状態となりますので、その病が治まるはずがございません。
 従いまして、邪の来るべきタイミングを捉えましたらその瞬間、矢を放つように寫すのでございます。
 
そのタイミングを捉える事のできない者は、打とうとして槌を振り上げてはみたが、ためらってなかなか振り下ろせないでいるようなものであります。
 
 故に、道に法りその発動のタイミングを体得している者は、間髪を入れず瞬発し、体得し得ていない者は、ためらうばかりで何もできないものであると申すのであります。
 
 
帝が申された。
補寫の先後はどのようにすればよいのか。
 
 岐伯が申された。
 先ずは邪を攻めるのが先決です。
一刻も早く盛んになって欝滞している血を取り去り、その真気の通りを回復させなくてはなりません。
 
この場合、邪はまだ新しく客したもので、真気とともに流動して未だ一定の場所に留まっておりません。
 
これを推して補えば病は進み、これを引いて寫せば病は止まるのであります。
 
この事に逆らって鍼を刺しますと血が欝滞して熱を持つようになり、刺して血を出しますとその病は、その場で立ちどころに已(や)むものであります。
 
 
原文と読み下し
 
黄帝問曰.
余聞九鍼九篇.夫子乃因而九之.九九八十一篇.余盡通其意矣.
經言氣之盛衰.左右傾移.以上調下.以左調右.有餘不足.補寫於榮輸.余知之矣.
此皆榮衞之傾移.虚實之所生.非邪氣從外入於經也.
余願聞邪氣之在經也.其病人何如.取之奈何.
黄帝問うて曰く。
余は九鍼九篇を聞けり。夫子乃ち因りてこれを九にし、九九八十一篇、余は盡くその意に通ずるなり。
經に言う、氣の盛衰、左右の傾移は、上を以て下を調え、左を以て右を調え、有餘不足は榮輸を補寫すると。余これを知れり。
此れ皆榮衞の傾移、虚實の生ずる所にして、邪氣の外從り經に入るにはあらざるなり。
余願わくば邪氣の經に在るや、其の病人は何如なるや。これを取ること奈何にするやを聞かん。
 
岐伯對曰.
夫聖人之起度數.必應於天地.故天有宿度.地有經水.人有經脉.
天地温和.則經水安靜.
天寒地凍.則經水凝泣.
天暑地熱.則經水沸溢.
卒風暴起.則經水波涌而隴起.
岐伯對して曰く。
夫れ聖人の度數を起すや、必ず天地に應ず。故に天に宿度有り、地に經水有り、人に經脉有り。
天地温和なれば則ち經水安靜たり。
天寒く地凍れば則ち經水凝泣す。
天暑く地熱すれば則ち經水沸溢す。
卒風暴起すれば則ち經水波涌(はよう)して隴起(ろうき)す。
 
夫邪之入於脉也.寒則血凝泣.暑則氣澤.虚邪因而入客.亦如經水之得風也.經之動脉.其至也.亦時隴起.其行於脉中循循然.其至寸口中手也.時大時小.大則邪至.小則平.其行無常處.在陰與陽.不可爲度.從而察之.三部九候.卒然逢之.早遏其路.
吸則内鍼.無令氣忤.靜以久留.無令邪布.吸則轉鍼.以得氣爲故.
候呼引鍼.呼盡乃去.大氣皆出.故命曰寫.
夫れ邪の脉に入るや、寒なれば則ち血凝泣し、暑なれば則ち氣澤(とうたく)す。虚邪因りて入りて客す。亦た經水の風を得るが如きなり。經の動脉、其の至るや、亦た時に隴起す。其の脉中を行くこと循循然たり。其の寸口に至りて手に中るや、時に大、時に小。大なれば則ち邪至り、小なれば則ち平なり。其の行くに常の處無し。陰と陽に在るは、度を爲すべからず。從がいてこれを三部九候に察すれば、卒然としてこれに逢えば、早くその路を遏(とど)めよ。
吸すれば則ち鍼を内れ、氣をして忤(さから)しむること無かれ。靜にして以て久しく留め、邪をして布せしむること無かれ。吸すれば則ち鍼を轉じ、以て氣を得るを故と爲す。
呼を候いて鍼を引き、呼盡きて乃ち去る。大氣皆出ず。故に命じて寫と曰く。
 
 
帝曰.不足者補之奈何.
岐伯曰.
必先捫而循之.切而散之.推而按之.彈而怒之.抓而下之.通而取之.外引其門.以閉其神.
呼盡内鍼.靜以久留.以氣至爲故.如待所貴.不知日暮.其氣以至.適而自護.候吸引鍼.氣不得出.各在其處.推闔其門.令神氣存.大氣留止.故命曰補.
帝曰く。不足なる者はこれを補うとは奈何にするや。
岐伯曰く。
必ず先ず捫してこれに循い、切してこれを散じ、推してこれを按じ、彈じてこれを怒し、抓(つま)みてこれを下し、通じてこれを取り、外は其の門を引き、以て其の神を閉ず。
呼盡きて鍼を内れ、靜かに以て久しく留め、氣至るを以て故と爲す。貴なる所を待ちて、日の暮れるを知らざるが如し。其の氣以て至れば、適して自ずと護る。吸を候いて鍼を引く。氣出ずるを得ず。各おの其の處に在りて、其の門を推闔(すいごう)して、神氣をして存し、大氣を留止せしむ。故に命じて補と曰く。
 
帝曰.候氣奈何.
岐伯曰.
夫邪去絡入於經也.舍於血脉之中.其寒温未相得.如涌波之起也.時來時去.故不常在.
故曰.方其來也.必按而止之.止而取之.無逢其衝而寫之.
眞氣者.經氣也.經氣太虚.故曰.其來不可逢.此之謂也.
故曰.候邪不審.大氣已過.寫之則眞氣脱.脱則不復.邪氣復至.而病益蓄.故曰.其往不可追.此之謂也.
帝曰く。氣を候うこと奈何せん。
岐伯曰く。
夫れ邪の絡を去りて經に入るや、血脉の中に舍(やど)る。其の寒温未だ相得ず、涌波の起るが如きなり。時に來たり時に去る。故に常には在らざるなり。
故に曰く。其の來るに方(あた)りては、必ず按じてこれを止め、止めてこれを取る。其の衝に逢いてこれを寫すことなかれ。
眞氣なる者は、經氣なり。經氣太(はなは)だ虚す。故に曰く。其の來るや逢うべからずとは、此れこれを謂うなり。
故に曰く。邪を候いて審びらかならず、大氣已に過ぎて、これを寫せば則ち眞氣脱す。脱すれば則ち復せず。邪氣復た至りて、病益々蓄す。故に曰く。其の往くは追うべからずとは、此れこれを謂うなり。
 
不可挂以髮者.待邪之至時.而發鍼寫矣.若先若後者.血氣已盡.其病不可下.故曰.知其可取.如發機.不知其取.如扣椎.故曰.知機道者.不可挂以髮.不知機者.扣之不發.此之謂也.
挂(か)けくるに髪を以てすべからずという者は、邪の至る時を待ちて、鍼を發して寫するなり。若しくは先んじ若くは後るる者は、血氣已に盡きて其の病下すべからず。故に曰く。其の取るべきを知れば、機の發するが如くし、其の取るを知らざれば、椎を扣(ひか)えるが如くす。故に曰く、機の道を知る者は、挂けくるに髮を以てすべからず、と。機を知らざる者は、これを扣えて發せずとは、此れこれを謂うなり。
 
帝曰.補寫奈何.
岐伯曰.此攻邪也.疾出以去盛血.而復其眞氣.此邪新客.溶溶未有定處也.推之則前.引之則止.逆而刺之.温血也.刺出其血.其病立已.
帝曰く、補寫は奈何なるや。
岐伯曰く。此れ邪を攻めるなり。疾く出し以て盛血を去りて、其の眞氣を復す。此の邪新たに客し、溶溶として未だ定處有らざるなり。これを推せば則ち前(すす)み、これを引けば則ち止する。逆らいてこれを刺せば、温血す。刺して其の血を出だせば、其の病立ちどころに已む。
 
帝曰善.然眞邪以合.波隴不起.候之奈何.
岐伯曰.
審捫循三部九候之盛虚而調之.察其左右上下相失及相減者.審其病藏以期之.
不知三部者.陰陽不別.天地不分.地以候地.天以候天.人以候人.調之中府.以定三部.故曰.刺不知三部九候.病脉之處.雖有大過且至.工不能禁也.
誅罰無過.命曰大惑.反亂大經.眞不可復.用實爲虚.以邪爲眞.用鍼無義.反爲氣賊.奪人正氣.以從爲逆.榮衞散亂.眞氣已失.邪獨内著.絶人長命.予人夭殃.不知三部九候.故不能久長.
帝曰く、善と。然れば眞邪以て合し、波隴起らざるは、これを候うこと奈何なるや。
岐伯曰く。
審びらかに三部九候の盛虚を捫循し、これを調う。其の左右上下の相失及び相減する者を察し、其の病む藏を審びらかにし、以てこれを期す。
三部を知ざる者は、陰陽を別たず、天地を分けざるなり。地は以て地を候い、天は以て天を候い、人は以て人を候う。これを中府に調え、以て三部定まる。故に曰く。刺すに三部九候、病脉の處を知らざれば、大過且(まさ)に至らんとする有りと雖ども、工禁ずること能わざるなり。
過無きを誅罰するを、命じて大惑と曰く。反って大經を亂し、眞復すべからず。實を用いて虚と爲し、邪を以て眞と為す。鍼を用いるに義無く、反って氣の賊と爲し、人の正氣を奪す。從を以て逆と為せば榮衞は散亂し、眞氣已に失し、邪獨り内に著く。人の長命を絶し、人に夭殃(ようおう)を予(あた)う。三部九候を知らず。故に久長なること能わず。
 
因不知合之四時五行.因加相勝.釋邪攻正.絶人長命.
邪之新客來也.未有定處.推之則前.引之則止.逢而寫之.其病立已.
因りてこれを四時五行に合するを知らず。因りて相勝加わり。邪を釋(ゆる)して正を攻め、人の長命を絶す。
邪の新たに客し來たるや、未だ定處有らず。これを推せば則ち前み、これを引けば則ち止り、逢いてこれを寫せば、其の病立ちどころに已ゆ。

 

 
 
 
 

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