ここに至るまでの篇で、四時による陰陽の盛衰・消長と、人体との相関は何度も重複して記載されている。
この篇では、新たに月の満ち欠けによる、陰陽の盛衰・消長と人体の関係を説き、補瀉にまで言及している。
女性の月経周期が、月の満ち欠けと相関していることは、ご承知の方も多いと思う。
満月前後に来潮する女性は、自然界のリズムと調っていることがわかるのであるが、この篇に記載されていることは、女性の治療に際しては、必須の内容である。
つまり、女性の治療においては、月齢と月経周期との関係と、今この時が月経周期のどこに位置しているのかは、常に把握しておかなくてはならない。
ただし、五行論と同じく、これを絶対的法則として、機械的に目の前の現実に当てはめようとすると誤る。
新月であっても、正しく診断した結果が『実』であれば、これを瀉すべきである。
現実は、常と変が入れ替わり立ち代わりするものである。
その変化は、『極め難し』である。
この篇は、老子56章にある『知る者は言わず、言う者は知らず』という言葉が意訳中に頭に浮かんだので、これを意識して意訳した。
真理は、言外にある。
察せざるべからずである。
原 文 意 訳
黄帝が申された。
鍼を用いるに際しては、必ず身に着けておかなくてはならない法則があろうが、どのような真理に法るのであろうか。またどのようなことに則して鍼を用いれば良いのであろうか。
岐伯がこれに対して申された。
無形の天の真理に法り、有形の地に則します。さらに天地の気を合しますには、日月星辰の運行・変化をもってするのであります。
黄帝が申された。
願わくば、事細かに詳しく聞きたいのであるが。
岐伯が申された。
おおよそ刺鍼の法則は、必ず日月・星辰、四時・八風など自然の状態を候いまして、天地・陰陽の気を捉えることができましてから、すなわち鍼を刺すのでございます。
具体的に申し上げますと、天が温かく日差しも明るいときは、人の血は粘度が高まり衛気は体表に浮いて参ります。従いまして血は瀉しやすいのであります。
反対に天が寒く日が陰りますと、人の血は凝り固まって流れが渋り、衛気も体内に潜みます。
月が新月から次第に姿を現し始めますと、気血は清らかになり始めまして、衛気もまた盛んにめぐり始めるのであります。
月の輪郭が満ちます満月ともなりますと、血気は充実して肌肉もしっかりと締って参ります。
月の輪郭がなくなります新月には、肌肉の機能も減じ、相対的に経絡は虚しまして衛気もまた衰えて参りますので、姿形だけが元のままのように目に映ります。
このようでありますれば、その時々の天の気の状態に適うように、気血を調えるのであります。
従いまして、天が寒いときは陽気を漏らすような鍼をしてはなりませんし、天が暖かでありましたら気の動きは早いのでありますから、グズグズとためらうような鍼をしてはなりません。
月が生じ始めた時には、瀉すべきではなく、月が満ちている時には補うべきではありません。月の姿が見えない新月の日の治療は、相当気をつけなくてはなりません。
これらのことは、天地陰陽の気と人体の気血との一般的な相関関係でありまして、必ずしもすべてがこのようではありませんが、このようなことが、時を得て調えるということであります。
天の気の移り変わりによりまして、盛んになったり虚したりする時があるのですが、日陰の長さを計る圭(けい)を用いて、光を大地に移しまして、正しい基準となる位置を定めるべく、気の移り変わりを待つのであります。
一般的に月が生じ始めに瀉することを、減虚と申しまして虚を益し、月が満ちた時に補しますと気血が溢れ気が上に高ぶってふわふわとし、絡に留血して瘀血となります。これを名づけて重実と申します。
月の姿が見えない新月に下手な治療をいたしますことを、常軌を乱すというのであります。
このように、天の時期を察せず、しかも補瀉を取り違えますと、陰陽虚実が互いに複雑に入り混じった状態となりますので、真気と邪気の区別が大変難しくなります。
そのため、邪気は深く体内に沈んで留滞してしまいます。そうなりますと、外を守る衛気は虚し、内を守る臓腑・気血の機能は混乱して、ひつこくて容易に取り除くことのできない淫邪となり始めるのであります。
帝が申された。
星辰や八正で、いったい何を候うのであろうか。
岐伯が申された。
星辰は、日月の運行を秩序づけるものでございます。
八正は、八風の虚邪が八節の時期に至るかどうかを候う、基準とするものであります。
四時は、春夏秋冬の気の所在と状態を分別し、時節を考慮しながら気の偏在を調え養う目安と致します。
八正の虚邪に対しては、これを避けて犯されるようなことがあってはなりません。
身体が虚している時に、たまたま天の気も虚している時に遭遇しますと、人は天の虚の影響をまともに受けまして、邪気が身体深くの骨にまで至ることがあります。
邪気が五臓に入って障害いたしますと、これらの病理をわきまえ、候う術を心得た医師でありましたら、これを救うことができまして、五臓もまた重篤な障害から免れることができるのであります。
従いまして、避けなければならない天の忌まわしい時期は、知らないということでは済まないほど、重要なのであります。
帝が申された。
よく分かった。星辰に法ることの意味は、すでに聞かせてもらったのであるが、願わくば古人は、どのように星辰に法っていたのかを、聞かせてもらいたい。
岐伯が申された。
古人を規範とするには、先ず鍼の筋道・道理というものをを知っておくことが大切です。
現代において古人の術を再現し実証するには、先ず日の寒温、月の虚盛を知った上で、気の
浮き沈みを候い、身体の気を調えるようにいたしますと、確実に再現して実証する事ができるの
であります。
古人が暗くてはっきりとしないものを観ることができるとは、身体の営衛の気は、具体的な形として現れませんが、ひとり古人の医師だけがこれを察知できていたのであります。
本日ただ今の、日の寒温、月の虚盛、四時の気の浮沈の変化など、これら全てを参伍して、総合的見地に立って気を調えるのであります。
医師たるものは、何よりも先ずこれらの事を常識としているのでございます。
このように具体的に形に現れていないものを察知しているのですから、これを冥冥を観ると言うのであります。
時代や世相がどのように変わろうとも、真理は変わりません。
この真理は、後世に伝えていかなくてはなりません。
したがいまして、医師たるものは一般人と異なって、このような術を心得た特別な存在でなくてはなりません。
医師は、形に無いものを見ることができるのでありますから、衆人と場を同じくして、同じものを見ても衆人には見えないのであります。
それは形無きものを視、味無きものを嘗(な)めることができるからであります。
したがいまして冥冥たるを観ることのできる医師は、神を髣髴とさせる存在なのであります。
虚邪と申しますのは、四時八風の季節外れの賊風のことでありまして、いわゆる虚邪の気のことであります。
正邪と申しますは、もし肉体労働をして汗をかきますと、腠理が開きます。
その時たまたま虚風に当たり、開いている腠理から侵入したとしましても、それは微かな徴候しか現れません。
したがいまして、その正邪の状態は察知することができず、身体の異常もまたはっきりとは現れません。
上工、つまり術に長けた医師は、その兆しの段階で人を救うことができるのであります。
上工は三部九候の術を心得ておりますので、必ずまず三部九候の術で以て、気の遍在を候い、ことごとくこれを調えて邪気に敗れないようにして救いますので、このような医師を上工と言うのであります。
下工、つまり術に未熟な医師は、もうすでに発病してからこれを救おうとするものであります。
つまり、すでに邪気に敗れてしまってから救おうとすることであります。
すでに発病してから救おうとすることは、三部九候の道理も術も心得ていないので、病によってもうすでに、正気が敗れてしまっています。
つまりもうすでに手遅れの状態ということであります。
病の所在を知ることができるものは、三部九候の術で、病んでいる脉の所在を診て、未然に治療することができるのであります。ゆえに、邪気の入り口である、門戸を守ると言うのであります。
このようでありますれば、いちいち症状を聞くことなくして不問診で、具体的に邪を捉える事ができるのでございます。
帝が申された。
余は、補写について聞いてはいるが、いまだにその真意が掴めていないのだが。
岐伯が申された。
瀉法を行うには、タイミングに合わせるやり方がございます。
そのやり方と申しますのは、気が、「まさに今、この時」に盛んであるタイミングを察知することが大切なのであります。
月がまさに満月の時や、日がまさに温かでありますと、人体もまさに安定いたします。
同様に、患者がまさに息を吸い込もうとした時に鍼を入れ、さらにまた息を吸おうとした時に鍼を捻転させ、さらにまた、まさに息を吐こうとした時を候って、徐々に鍼を引くのであります。
したがいまして、瀉法は、必ず「タイミングがある」と申しまして、瀉法によって邪気が除かれましたら、気は自然に行(めぐ)るのであります。
補法には、必ず員、つまり円を用います。
円というのは滑らかに転がり行(めぐ)るという意味であります。
行るということはまた、移動するということでもあります。
つまり円滑に正気を移動させ、集めると言うことであります。
刺入に際しては、栄気に中るようにいたしまして、また息を吸い込む時に鍼を抜くのであります。
したがいまして、員と方と申しますのは、鍼の種類のことではありません。
患者の神を養おうといたしますれば、必ず身体の肥痩と、営衛と血気の盛衰を知らなくてはなりません。
血気というものは、人の神であるとも言えます。謹んで養わざるべからずなのであります。
帝が申された。
不思議ではあるが、なんともすばらしい論であることよ。
人の身体の盛衰を陰陽・四時に関連付け、虚実の対処法と、この先の予測もつきにくい気の至り方やその時期など、夫子でなければ、誰がこのようなことに通じて伝えることができるであろうか。
しかるに、夫子はしばしば形と神と申すが、形と神とは、いったいどのようなことなのか。願わくば、詳しくこれらのことを聞かせてもらいたい。
岐伯が申された。
よろしゅうございます。
形についてご説明いたします。
形と申しますのは、肉体そのものではなく、目で見て捉えようとしてもぼんやりとして捉えられないものであります。
それは、患者にその病の状態を問い、そして筋道に沿って病態を捉えることであります。
勘案して病態が捉えられなければ、その病のいきさつも知ることができません。したがいまして、形と申しますのは、身体の病態、気の遍在の状態のことであります。
帝が申された。
神について申されよ。
岐伯が申された。
よろしゅうございます。
神について申し上げます。
神というものは、耳で聞くことができないものであります。
心眼を開けばその目に、はっきりと映るものであります。
心の向かう先よりも早く、患者と相対した瞬間にひとり悟るものであります。
衆人と共に意識的に視ても、医師ひとりが自然と見え、一時的にあいまいで暗く感じていようとも、ひとり隅々まで明らかにして見ることができるのでございます。
それはあたかも空を暗く覆う雲を風が吹き払うかのようであります。
したがいまして、神と申しますものは、直観で捉えるしか方法のない、無形のものであります。
形と神を知るには、三部九候にその原点がありまして、九鍼の論に、必ずしも在るわけではありません。
原文と読み下し
黄帝問曰.用鍼之服.必有法則焉.今何法何則.
岐伯對曰.法天則地.合以天光.
黄帝問うて曰く。用鍼の服、必ず法則有り。今何に法り何に則するや。
岐伯對して曰く。天に法り地に則し、合するに天光を以てす。
帝曰.願卒聞之.
岐伯曰.
凡刺之法.必候日月星辰.四時八正之氣.氣定乃刺之.
是故天温日明.則人血淖液.而衞氣浮.故血易寫.氣易行.天寒日陰.則人血凝泣.而衞氣沈.
月始生.則血氣始精.衞氣始行.
月郭滿.則血氣實.肌肉堅.
月郭空.則肌肉減.經絡虚.衞氣去.形獨居.
是以因天時而調血氣也.
是以天寒無刺.天温無※1疑.
月生無寫.月滿無補.月郭空無治.是謂得時而調之.
因天之序.盛虚之時.移光定位.正立而待之.
故日月生而寫.是謂※2減(藏)虚.
月滿而補.血氣揚溢.絡有留血.命曰重實.
月郭空而治.是謂亂經.
陰陽相錯.眞邪不別.沈以留止.外虚内亂.淫邪乃起.
帝曰く。願わくば卒(ことごと)くこれを聞かん。
岐伯曰く。
凡そ刺の法、必ず日月星辰、四時八正の氣を候い、氣定まりて乃ちこれを刺す。
是れ故に天温かく日明らかなれば、則ち人の血淖液(しゃくえき)して、衞氣浮く。故に血寫し易く、氣行き易し。天寒く日陰れば、則ち人の血凝泣して、衞氣沈む。
月生じ始めれば、則ち血氣精になり始め、衞氣行り始める。
月郭滿つれば、則ち血氣實し、肌肉堅し。
月郭空なれば則ち肌肉減じ、經絡虚し、衞氣去り、形獨り居す。
是れを以て天時に因りて血氣調うるなり。
是を以て天寒きは刺すことなかれ。天温かきは疑らすことなかれ。
月生じたるは寫すことなかれ。月滿ちて補することかかれ。月郭空なるは治すことなかれ。是れを時を得てこれを調うと謂う。
天の序、盛虚の時に因りて、移光もて位を定め、正立してこれを待つ。
故に日月生じて寫す。是れを減(藏)虚と謂う。
月滿ちて補せば、血氣揚溢して絡に留血あり。命じて重實と曰く。
月郭空にして治す。是れを亂經と謂う。
陰陽相錯し、眞邪別たず。沈みて以て留止し、外虚し内亂れ、淫邪乃ち起く。
※疑・・・ぐずぐすしてためらう。
※2・・・新校正にならい、蔵を減に改める。
帝曰.星辰八正何候.
岐伯曰.
星辰者.所以制日月之行也.
八正者.所以候八風之虚邪.以時至者也.
四時者.所以分春秋冬夏之氣所在.以時調之也.
八正之虚邪.而避之勿犯也.以身之虚.而逢天之虚.兩虚相感.其氣至骨.入則傷五藏.工候救之.弗能傷也.故曰天忌.不可不知也.
帝曰く。星辰八正は何を候うや。
岐伯曰く。
星辰なる者は、日月の行を制する所以なり。
八正なる者は、八風の虚邪を候うに、時至るを以てする所以の者なり。
四時なる者は、春秋冬夏の氣の所在を分ち、時を以てこれを調う所以なり。
八正の虚邪、これを避けて犯すこと勿れ。身の虚を以て、天の虚に逢えば、兩虚相い感じ、其の氣は骨に至る。入れば則ち五藏を傷る。工候いてこれを救わば、傷ること能わざるなり。故に曰く。天忌は、知らざるべからざるなり。
帝曰善.其法星辰者.余聞之矣.願聞法往古者.
岐伯曰.
法往古者.先知鍼經也.驗於來今者.先知日之寒温.月之虚盛.以候氣之浮沈.而調之於身.觀其立有驗也.
觀其冥冥者.言形氣榮衞之不形於外.而工獨知之.以日之寒温.月之虚盛.四時氣之浮沈.參伍相合而調之.工常先見之.然而不形於外.故曰觀於冥冥焉.
通於無窮者.可以傳於後世也.是故工之所以異也.然而不形見於外.故倶不能見也.視之無形.嘗之無味.故謂冥冥若神髣髴.
帝曰く、善し。其の星辰に法る者は、余はこれを聞けり。願わくば往古に法る者を聞かん。
岐伯曰く。
往古に法る者は、先ず鍼經を知るなり。來今に驗する者は、先ず日の寒温、月の虚盛を知り、以て氣の浮沈を候い、しかしてこれを身に調え、其の立ちどころに驗有るを觀るなり。
其の冥冥たるを觀る者とは、形氣榮衞の、外に形せずとも、工獨りこれを知るを言うなり。日の寒温、月の虚盛、四時の氣の浮沈を以て、參伍相い合してこれを調う。工は常に先ずこれを見る。然り而して外に形せず。故に曰く、冥冥を觀ると。
無窮に通ずる者は、以て後世に傳うべきなり。是の故に工の異とする所以なり。然ち而して外に形見われず。故に倶に見ること能わざるなり。
これを視れども形なく、これを嘗めて味なし。故に謂う。冥冥として神の髣髴(ほうふつ)たるが若しと。
虚邪者.八正之虚邪氣也.
正邪者.身形若用力.汗出.腠理開.逢虚風.其中人也微.故莫知其情.莫見其形.
上工救其萌牙.必先見三部九候之氣.盡調不敗而救之.故曰上工.
下工救其已成.救其已敗.救其已成者.言不知三部九候之相失.因病而敗之也.
知其所在者.知診三部九候之病脉處而治之.故曰守其門戸焉.莫知其情而見邪形也.
虚邪なる者は、八正の虚邪の氣なり。
正邪なる者は、身形若し力を用い、汗出で、腠理開き、虚風に逢いて、其の人に中るや微なり。故に其の情を知ることなく、其の形見ることなし。
上工其の萌牙を救うに、必ず先ず三部九候の氣を見て、盡く調え敗られずしてこれを救う。故に上工と曰く。
下工はその已に成りたるを救い、其の已に敗れたるを救い、其の已に成りたる者を救うは、三部九候の相い失するを知らず、病に因りてこれに敗れるを言うなり。
其の所在を知る者は、三部九候の病脉の處を診てこれを治するを知るなり。故に曰く。其の門戸を守り、其の情を知ることなくして邪の形を見ると。
帝曰.余聞補寫.未得其意.
岐伯曰.
寫必用方.方者.以氣方盛也.以月方滿也.以日方温也.以身方定也.
以息方吸而内鍼.乃復候其方吸而轉鍼.乃復候其方呼而徐引鍼.
故曰寫必用方.其氣而行焉.
帝曰く。余は補寫を聞くも、未だ其の意をえざるなり。
岐伯曰く。
寫は必ず方を用う。方なる者は、氣の方(まさ)に盛を以てするなり。月の方に滿なるを以てし、日の方に温なるを以てし、身の方に定まるを以てし。息の方に吸を以て鍼を内るなり。
乃ち復た其の方に吸を候いて鍼を轉じ、乃ち復た其の方に呼を候いて徐に鍼を引く。
故に寫は必ず方を用うと曰く。其の氣は、而して行くなり。
補必用員.員者行也.行者移也.刺必中其榮.復以吸排鍼也.
故員與方.非鍼也.
故養神者.必知形之肥痩.榮衞血氣之盛衰.
血氣者人之神.不可不謹養.
補は必ず員を用う。員なる者は行なり。行なる者は移なり。刺には必ず其の榮に中て、復た吸を以て鍼を排するなり。
故に員と方とは、鍼に非ざるなり。
故に心を養う者は、必ず形の肥痩、榮衞血氣の盛衰を知る。
血氣なる者は人の神、謹しんで養わざるべからず。
帝曰.妙乎哉論也.
合人形於陰陽四時.虚實之應.冥冥之期.其非夫子.孰能通之.
然夫子數言形與神.何謂形.何謂神.願卒聞之.
帝曰く。妙なるかな論や。
人形は陰陽四時に合す。虚實の應、冥冥の期、其れ夫子にあらざれば、孰れか能くこれに通ぜん。
然るに夫子數しば形と神を言う。何をか形と謂い、何をか神というや。願わくば卒にこれを聞かん。
岐伯曰.請言形.形乎形.目冥冥問其所病.索之於經.慧然在前.按之不得.不知其情.故曰形.
岐伯曰く。請う、形を言わん。形なるかな形。目は冥冥として其の病む所を問う。これを經に索(もと)む。慧然として前に在り。これを按ずるも得ずして、其の情を知らず。故に形と曰く。
帝曰.何謂神.
岐伯曰.
請言神.神乎神.耳不聞.目明心開.而志先.慧然獨悟.口弗能言.倶視獨見.適若昏.昭然獨明.若風吹雲.故曰神.
三部九候爲之原.九鍼之論不必存也.
帝曰く。何をか神と謂わん。
岐伯曰く。
請う、神を言わん。神なるかな神。耳に聞かず、目明らかにして心開き、而して志先んじ、慧然(けいぜん)として獨り悟る。口に言うこと能わず、倶に視て獨り見る。昏(くら)きが若きも、昭然として獨り明らかなること、風の雲を吹くがが若きに適(かな)う。故に神と曰く。
三部九候これが原と爲す。九鍼の論、必ずしも存ぜざるなり。
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