鍼灸医学の懐

病能論篇第四十六.

秋空に似合う花
 表題の「病能」とは、一体いかなるものを指し示しているのであろうかは、いまひとつ筆者には明確に言い切れるものがない。
 本篇内に取り上げられている内科・外科・精神科領域の疾病を通じて、「病態」を把握して治療を施する視点を述べているのであろうか。
 それはさておき、胃袋の廱(よう)とは、現代的にはさしずめ胃潰瘍や胃癌などの腫瘍に相当するのであろう。
 この篇の言わんとすることをくみ取れば、四肢・体感部、呼吸器・消化器の癌や腫瘍全般のものは、鬱した熱が主要因であることがわかる。
 現代では、遺伝子や化学物質、放射能など、様々な外部要因にその原因が求められるが、内部要因に目を注いでいるこの医学の視点は、問題解決に大変有効であり、重要な点であり、現代にかけている点でもあると考える。
 また、厥病では、脈の左右差を取り上げているが、これもまた普遍的なことではなく、一例として捉えるのが良いかとかと思う。
 面白いと感じたのは、躁病などの狂症には、胃の熱こそがその原因であるのだから、絶食させると治まるものであると述べられているところである。
 熱の存在を、体温計でしか認識できない現代医学的視点では、理解不可能であろうと思う。
 筆者の臨床経験では、こってりとした物の過食傾向にあり、外見的には明るく見えても内面が鬱しやすい傾向の人に狂症が生じやすいと考えている。
 
原 文 意 訳
黄帝が問うて申された。
胃袋に廱(よう)ができた人を、どのように診察するのであろうか。
 岐伯がそれに対して申された。
 このようなものを診察するには、先ず胃の脉を診なくてはなりません。その脉は沈で細でありましょう。
 この沈細の脉は、気逆を表現しています。気逆を起こしているものは、人迎が甚だ盛んでありまして、熱があることを示しています。
 人迎は、胃の脉でして気逆して盛んであるということは、熱が胃口に結集して行ることができないので、胃袋に廱を生じるのであります。
 帝が申された。
 なるほど、そうであったか。では、床に就いても、安眠できない人は、どうなのであろうか。
 岐伯が申された。
 臓が障害されているか、もしくは精気が本来帰るべき藏に帰らず、どこかで滞っておりますと安らかな気持ちになれないのであります。
 ですから一般的に、病が治まるかどうか決着がつかないものであります。
 帝が申された。
 仰向けになれないものは、どうなのであろう。
 岐伯が申された。
 肺と申しますは、最も高いところに位置し、いわば臓の蓋のようなものであります。
 そこで肺気が盛んとなりますと脉は大となります。肺の脉が大となりますと、仰向けになることができないのであります。これに関する論は、「奇恒陰」篇にあります。
 帝が申された。
 厥を病む者の脉を診ると、右脉が沈にして緊、左脉が浮にして遅である。この場合、病の中心がどこにあるのかが、分からないのであるが。
 岐伯が申された。
 冬に右脉は沈緊であるのを診るのは、これは四時に応じた正常な脈であります。
 ところが左脉が浮遅でありますのは、四時に応じていないことを現しています。
 この左脉が表現していることは、病んでいるのは腎にあり、脉の左右差が生じている原因は肺にありますので、腰が痛むのであります。
 帝が申された。
 何をもってそのように申されるのか。
 岐伯が申された。
 少陰の脉は、腎を貫いて肺を絡っております。今、浮遅の脉は肺の脉ですので、腎はこのために病むこととなったのであります。従いまして腎の府であります腰が痛むのであります。
 帝が申された。
 なるほど、よく分かった。では、首に廱を生じた者に、石用いる場合と鍼灸を用いる場合とがあるが、それぞれ皆治っている。この両者に共通する真理はどこにあるのであろうか。
 岐伯が申された。
 これは同じ廱であっても、病態が異なるためであります。
 廱気の初期であれば鍼で患部を開いて気を漏らしてやれば良いのであります。ところがいよいよ廱気が盛んとなり、血もまた聚り、熱と膿をもって腫れあがってまいりますと、石を用いてこれを切開して取り去らなくてはなりません。
 これが同じ廱という名の病であり、病因が同じであっても、病態の程度によって治療方法が異なるゆえんであります。
 帝が申された。
 むやみやたらと怒り狂う病があるが、これはどこから生じるのであろうか。
 岐伯が申された。
 これは陽の異常から生じるのであります。
 帝が申された。
 どうして陽気が異常となって人を狂わすのであろう。
 岐伯が申された。
 陽気と申しますは、人を動かす原動力であります。時に突然行動の自由を奪われたり、志が折れるようなことがありますと、唖然としてしまい、発すべき陽気が停滞してしまいます。
 従いまして陽気が鬱積して人をよく怒らせしめるのであります。この病は、陽厥と申します。
 帝が申された。
 何をもって陽厥であることが分かるのであろう。
 岐伯が申された。
 陽明の脉は元来、陽気が強く常に拍動を取ることができます。ところが太陽と少陽の脉は、通常は拍動していないはずのものが、拍動を取ることができ、しかも速い場合は、陽厥の徴候として知ることができるのであります。
 帝が申された。
 この病を治すには、どのようにすれば良いのか。
 岐伯が申された。
 絶食させると、即治まります。飲食物は陰に入り、穀気は陽気を助長いたします。ですから絶食させると、即治まるのであります。
 その上で重く引き下げる作用のある生の鉄洛を服用させますと、猛々しい陽気は下り、落ち着くようになります。
 帝が申された。
 なるほど、よく分かった。身体が熱して力が抜けたかのように脱力し、入浴したかのように発汗し、そのうえ悪風がして息切れするのは、何という病であろうか。
 岐伯が申された。
 病名は、酒風と申します。
 帝が申された。
 この病を治すには、どのようにすれば良いのか。
 岐伯が申された。
 沢瀉と白朮、各十分と麋銜(びかん)五分とを搗き合わせ、手の三指でつまみ、食後に服用させるのであります。
 ※以下、錯簡との説
 いわゆる深く案じて細なる脉は、手の中の鍼のようである。これを按じ撫でても気が聚まったままで堅く、強く伝わってくるのは大脈である。
 「上経」は、人の気は天に通じて合一であることを述べたものである。
 「下経」は、病の変化を説いたものである。
 「金匱」は、生きる病であるか死に病であるかを診断する書である。
 「揆度」は、脈診について説かれた書である。
 「奇恒」は、一般的病とそうでないものについて、説いた書である。
 いわゆる奇とは、四時の気に関係なく死する病である。
 恒とは常のことであり、四季の気に応じて死する病のことである。
 いわゆる揆とは、まさに切診であり、その脉が現す脉理を説くものである。
 度とは、その病を得た病理を、四時を基準として診断することを説いたものである。
原文と読み下し

黄帝問曰.人病胃脘癰者.診當何如.

岐伯對曰.

診此者.當候胃脉.其脉當沈細.沈細者氣逆.逆者人迎甚盛.甚盛則熱.

人迎者.胃脉也.逆而盛.則熱聚於胃口而不行.故胃爲癰也.

黄帝問うて曰く。人胃脘の癰を病む者、診するに當にいかなるべきか。

岐伯對して曰く。

此れを診する者は、當に胃の脉を候うべし。其の脉當に沈細たるべし。沈細なる者は氣逆す。逆する者は人迎甚だ盛んなり。甚だ盛んなれば則ち熱す。

人迎なる者は、胃の脉なり。逆して盛んなれば、則ち熱胃口に聚りて行(めぐ)らず。故に胃脘に癰を爲すなり。

帝曰、善.人有臥而有所不安者.何也.

岐伯曰.藏有所傷.及精有所之寄則※不安.故人不能懸其病也.

帝曰く。善し。人臥して安ぜざる所有る者有るは、なんなるや。

岐伯曰く。藏傷れる所有り、及び精之(ゆ)き寄る所有れば則ち安ぜず。故に人其の病を懸(かけ)ること能わざるなり。

※甲乙経、太素に倣い、安を不安に作る。

帝曰.人之不得偃臥者.何也.

岐伯曰.肺者.藏之蓋也.肺氣盛則脉大.脉大則不得偃臥.論在奇恒陰陽中.

帝曰く。人の偃臥(えんが)を得ざる者は、何なるや。

岐伯曰く。肺なる者は、藏の蓋なり。肺氣盛んなれば則ち脉大なり。脉大なれば則ち偃臥を得ず。論は奇恒陰陽中に在り。

帝曰.有病厥者.診右脉沈而緊.左脉浮而遲.不知(然).病主安在.

岐伯曰.冬診之.右脉固當沈緊.此應四時.左脉浮而遲.此逆四時.在左當主病在腎.頗關在肺.當腰痛也.

帝曰く。厥を病む者有り。診するに右脉は沈にして緊。左脉は浮にして遲。病は主として安(いずく)んぞに在るやを知らず。

岐伯曰く。冬これを診すれば、右脉は固(もと)より當に沈緊たるべし。此れ四時に應ず。左脉の浮にして遲なるは、此れ四時に逆す。左に在るは當に主なる病は腎に在りて、頗關(はかん)は肺に在るべし。當に腰痛むべきなり。

※甲乙経に倣い、然を知に作る。

帝曰.何以言之.

岐伯曰.少陰脉.貫腎絡肺.今得肺脉.腎爲之病.故腎爲腰痛之病也.

帝曰く。何を以てこれを言うや。

岐伯曰く。少陰の脉、腎を貫き肺を絡う。今肺脉を得たり。腎これが爲に病む。故に腎は腰痛の病を爲すなり。

帝曰善.有病頸癰者.或石治之.或鍼灸治之.而皆已.其眞安在.

岐伯曰.此同名異等者也.夫癰氣之息者.宜以鍼開除去之.夫氣盛血聚者.宜石而寫之.此所謂同病異治也.

帝曰く。善し。頸癰を病む者有り。或いは石にてこれを治し、或いは鍼灸にてこれを治す。しかして皆已む。其の眞は安(いずくんぞ)にか在るや。

岐伯曰く。此れ名を同じくして異等の者なり。夫れ癰氣の息なる者は、鍼を以て開除してこれを去るに宜し。夫れ氣盛んにして血聚る者は、石にてこれを寫すに宜し。此れ所謂同病にして治を異にするなり。

帝曰.有病怒狂者.此病安生.

岐伯曰.生於陽也.

帝曰.怒狂を病む者有り。此の病、安にか生ずるや。

岐伯曰く。陽に生ずるなり。

帝曰.陽何以使人狂.

岐伯曰.陽氣者因暴折而難決.故善怒也.病名曰陽厥.

帝曰く。陽は何を以て人を狂わせしむるや。

岐伯曰く。陽氣なる者、暴折して決し難きに因りての故に善く怒るなり。病名づけて陽厥と曰く。

帝曰.何以知之.

岐伯曰.陽明者常動.巨陽少陽不動.不動而動大疾.此其候也.

帝曰く。何を以てこれを知るや。

岐伯曰く。陽明なる者は常に動ず。巨陽少陽は動ぜず。動ぜずして動じ、大いに疾(はや)し。此れ其の候なり。

帝曰.治之奈何.

岐伯曰.奪其食即已.夫食入於陰.長氣於陽.故奪其食即已.使之服以生鐵洛爲飮.夫生鐵洛者.下氣疾也.

帝曰く。これを治することいかなるや。

岐伯曰く。其の食を奪すれば即ち已む。夫れ食陰に入り、氣を陽に長ず。故に其の食を奪すれば即ち已むなり。之を服するに生の鐵洛を以て飮と爲さしめる。夫れ生の鐵洛なる者は、氣疾を下すなり。

帝曰善.有病身熱解墮.汗出如浴.惡風少氣.此爲何病.

岐伯曰.病名曰酒風.

帝曰く。善し。身熱解墮を病むもの有り。汗出ずること浴するが如し。風を惡み、氣少なきは、此れ何の病と爲すや。

岐伯曰く。病名づけて酒風と曰く。

帝曰.治之奈何.

岐伯曰.以澤瀉朮各十分.麋銜五分合.以三指撮爲後飯.

帝曰く。これを治することいかなるや。

岐伯曰く。澤瀉朮各十分、麋銜(びこう)五分を合し、三指を以て撮(つま)み、後飯と爲す。

※麋銜 張景岳説 一名無心草 南人は天風草

所謂深之細者.其中手如鍼也.摩之切之.聚者堅也.愽者大也.

上經者.言氣之通天也.

下經者.言病之變化也.

金匱者.決死生也.

揆度者.切度之也.

奇恒者.言奇病也.

所謂るこれを深くして細なる者は、其の手に中ること鍼の如きなり。これを摩しこれを切し、聚る者は堅きなり。搏(愽)つ者は大なり。

上經なる者は、氣の天に通ずるを言うなり。

下經なる者は、病の變化を言うなり。

金匱なる者は、死生を決するなり。

揆度なる者は、これを切度するなり。

奇恒なる者は、奇病を言うなり。

※愽を搏に改めた。

所謂奇者.使奇病不得以四時死也.

恒者.得以四時死也.

所謂揆者.方切求之也.言切求其脉理也.

度者.得其病處.以四時度之也.

所謂る奇なる者は、奇病の四時を以て資するを得ざらしむなり。

恒なる者は、四時を以て死するを得るなり。

所謂る揆なる者は、方(まさ)に切してこれを求むるなり。切してその脉理を求むを言うなり。

度なる者は、其の病處を得るに、四時を以てこれを度するなり。

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