鍼灸医学の懐

腹  候

腹部の見ようは呼吸の腹候応ずるを候うべし。急変のある病人は呼吸の応じよう、おだやかならず。

次に動悸を候うべし。素問に云う「胃の大絡を名づけて虚里と曰く。膈を貫き肺を絡ひ、左の乳下に出づ。其の動、衣に応ずるは脈の宗気なり」(其の動、衣に応ずるの四字、馬玄台曰く、衍字(えんんじ)なり。下文にて考えるに衍ならん)とあり、此の虚里の動、甚だせわしく、高く手にあたるは悪証にて、猶更妊者などには甚だ忌むことなり。産後急証発することあり。又下文に其の動、衣に応ずるは宗気泄れるなりとあるにて味わいみるべし。
 ※衍字…語句の中に間違って入った不必要な文字(デジタル大源泉)

去りながら世に黄胖と云う病は此の動、甚だ高し。必ず悪証に非ず、勘弁すべし。是も偶記(『叢桂偶記』)に論じたり。さて詳らかなることは黄胖にて語るべし。

又此の虚里の動ばかりにてかぎらず、腹部の動悸へ心を付けて候うべし。動悸に変があらば何病にても油断はならず、急変をなすことあり。

小児は驚を発すること多し。又何ぞ痼疾のある人の動悸は常にかわることもあるべし。是等は猶更に問切と望聞とを参伍して候(ウカカヒ)得るべし。
 ※黄胖…黄胖は貧血や出血が原因で体内血液が不足して皮膚の乾燥、生理不順、神経の乱れなどの症状が診られる

大小建中柴胡湯の類、皆腹より方を付けるものなれば、腹候を油断すべからず。
腹の一体を候うの法は、腹の皮厚く肉ゆったりとして、肥人の股の如く皮と肉との分からぬを善とす。腹の皮薄くてうるおいなく、肉と皮との離れて幾つと云うかずもなく、筋のみえるは悪ししとす。

腹勢を診すると云うは柔らかならず、こわからず、呼吸の応おだやかに、何れの処を按じても痛みこたえることのなきを、腹勢のよきとは云うなり。
腹の皮が薄く肉と離れて背につき肉は引張て、縫箔屋のわくに掛けたる絹の如くになりたるは津液(ウルホイ)のなき人の腹なり。癖嚢・吐瀉・虚脱の人にあるものなり。

極めて津液の尽きる腹は、皮浮き立ちて羽をむしりたる鳥の胸を撫づるが如し、極虚の凶候とす。此の手ざわりは、自汗強く死に近き人の、手足の肌にも有るものなり。又死人の肌を撫でて覚ゆべし。

 ※癖嚢(へきのう)…胃痛を伴う胃拡張、胃がんの類か。

又多産の婦は、腹皮肉にはな(離)れて浮きたるは常態なり。津液を以て見分けべし。

心下より痞鞕して板を按ずる如くに指もうけつけぬは難治多し。然れども甚だ怒りなどして欝したる人、腹も斯の如くなることあり、是は難治ならず。

又皮の離れて底の引張て、板の如く筋立ち多く見えて、任脈凹にてあるも悪候にて労瘵に多し。引張る故、呼吸せわしく脈も数なるものなり。臍下ドフドフと力無きは虚腹なり。
さて其の力の無き臍下を按じてみれば、沈んで動か(ぬ)塊がある、夫れを強く按ぜば臍の四方は勿論、五体へ響て堪え難く痛むは虚なり。臍下はたわいもなきほど力なくとも、少しも按ぜば痛あり、是も虚に属す。関元気海辺は大切を救う穴処になりてあるも理なり。

総て上腹は大いにして痩せ、下腹は力なく処々に動気ありて、面色紅なる所なくば大病を催す候なり、むざとは療治ならず。長病の人、動悸へ手をあてても痛甚だかたきは極虚なり、難治なり。動悸の静なるは大病にても急死は無きものなり。

肥人の腹の形、胸肋よりむつくりと高く、下腹に至るほど大きく軟なる腹あり。又心下はすきて下腹大きなるは、皆是を佳き腹と云う。痩人の腹は胸肋よりひきく、小腹まで同じ形にて按ずるに軟なるは佳き腹なり。以上の腹は皆腹皮厚く、肉に離れずしてうるおいあり、動悸もなきものなり。

小児は心下高めにて少腹小なるものなり。人々腹形悪きと云えども、是は小児の常態なり。形は此の如くなることを先ず心得て腹候するに、病の半ばより腹形変じて脊につき削りて去りたる如くに、胸肋よりは板の如くになりて横骨の所にて段々に高くなること悪候なり。疫にも痢にも一二日のうちに此の如くなること多し。難治となす。動悸などあらわれて至て悪しく見えるまで知らずにはすまず。

此の如くならぬ前より腹診に熟すると、勢いの脱するは知るる故、早く難治を極めて明に治すべし。

五臓の積を分けて名もあれども(肝は肥気、心は伏梁、脾は痞気、肺は息賁、腎は奔豚とあり)必ず拘ることに非ず。古方家にて腹に拘攣(コウレン)と云うことを、芍薬の症なりと口癖(クチクセ)にする。是は伏梁と指すものなるべし。

大概は乳下の通りよりつけねの処まで引きはり、臂(ヒヂ)のようにある者、梁(ウツハリ)を伏せたる如くに見ゆると云う義なるべし。

観臓の時、彼の伏梁と云うべきものを、段々と皮肉を割りて見れば、衆筋引きしまり聚まりたるにて、皮を割るに従いてみなみなゆるみて異なるもの有るを見ず。皮の上よりは塊の如くに手にさわりて見えけるなり。拘急の腹は甘草、大棗、又芍薬の験ある処なり。夫れにて急痛せば小建中湯の主る所なり。

奔豚は腎積なりとあれども、動悸の上へうちあげるの形をたとえたるにて、其の動の甚だしきは、呼吸促逼し或いは昏眩するに至る。又驚に発することもあり。必ず腎積とばかり一筋に心得ては、医学者の療治の下手になると云う処へあたる。

金匱要略に其の病を四つありと云いてある。此の説解しかねれども、驚悸有りと云うものなどは頗る知るべし。千金方などにも奔豚と云うこと処々に出たり。猶委細は積聚の処にて語るべし。

何ほど脈数にて熱強く見ゆるとも、腹候して腹に熱のなきは推付け(オッツケ)さめる表熱なり。

さて腹候のとき、手の平へチリチリと熱勢の見えるは、伏したる熱にて容易にさめず。わけて小児の暴熱するは甚だ見わけかねる。引付も有るべきや、どれほどのことにならんやと覚束(おぼつか)なく、脈にては知れかねるものなり。ことごとく腹候にて決知すべし。心下の真中に動悸もありて、手掌へヂリヂリと応ずるは油断すべからず。

水腫にもせよ脚気にもせよ心下に水気の見えぬは大事なし。心下から水気を催したらば油断はならず。病家へとくと云いきかせて療治せよ。別ても水腫は外見がよく見えるもの故、急変を知らずに居たると悪く唱えらるる。

心下に畜水ありて呼吸せわしきは急変の処に気を付け(る)べし。さて又水腫の証に咳嗽があるも、腹の動気強きも、脈に数のあるも悪証なり。脚気の衝心は心下と動気と呼吸と脈にて決知すべし。

虫積の候は心下にあり。内がやわらかにてムックリと高く手を当ててみれば、どこともなく脹るようにて脹るにもあらず。掌の下にこるかと云う気味にあるものなり。此の腹の人は虫積の外候備わりてあるものなり。外候の詳なることは虫積の時に語るべし。

腹の痞を按ぜば、水面に物を浮きたるようにて手に随いて移る。下して取れるものなりと思うべからず。見える時もあり、又隠れる時もあり、全く塊もあり、又腸の脂膜切れて浮かみ出て、手にて按ぜばたわいもなく隠れる。皆悪候なり。脂膜の切れたることは疝の時に告ぐべし。

又臍下に堅塊の処々へまわることあり。是は指してかまいにならぬこともあるべし。悪くすると小便不利することあり、転胞の因になるあり。詳しくは其の時語らん。

気急の人、肋骨の動きて 扇(アオグ)如くなるもの悪候なり。急変あるもの多し。心下の真ん中に細(く)動悸のありて鳩尾へうちのぼる人は快寝することならず。腹気上へばかり引きあげる故なり。彼の奔豚の意味あり。酸棗仁湯の茯苓の味、考え知るべし。

さて積持ちの夜ねらぬと云うは、空腹になるほど気がすんで寝られぬものなり。元来病しき故に食の塩梅も常ならざれば、空腹になりたると意もつかぬものなり。其の大概をみて、是には臨臥に軽き茶漬(ツケ)けなどを食せしめると睡りを催す。腹気がぢっと落ち着く故なり。

又小児の遺溺(ネショウベン)するも、腹気引き上がりて少腹の空虚になるゆえ、遺弱するなり。大人も長夜になると度々小便に起きるは下冷する故なり、と云いておけれども、是も腹気の引き上げる故なり。

臨臥に餅か厚味の魚鳥の類を食すれば、其の夜起きず。小児の遺溺も厚味の食にて其の夜は止むものなり。是腹中実して腹気の引き上げぬ故なり。淡味にては早く消化するゆえ、深更に至れば、睡中に空腹になりて腹の引き上がる故に頻数は止まず。

さて又早起きして直に朝食を食することのならぬ人あり。是も積気のある人なり。寝口ゆえに食のならぬと云えども、睡中に空腹になりて腹気引き上がりて積気の動くゆえ食事しにくし。昼も空腹をこらえ過ぎて、却って食事のならぬことあるものなり。やはり此の意味なり。

静かに朝茶にても飲み、起歩する内に腹気もゆるみ食事がなる。終夜食せぬものゆえ、睡中に飢ゆるの理は、諸の治療に考え合わせて助けになること多し。

誰々も積持ちなれども、夜は快寝、或いは早起きしても食のなるなどと一概に云う人とは談することならず。

人の性によりて消化の厚薄もあり、大食すれば翌朝の飯は待ちかねるほど空腹になるを、昨夜腹を食い広げたる故なりと云うことあり。是は飽食にて睡中に空腹にならず、腹気実して醒める故に翌朝よきほどの腹の塩梅故、飯のうまく食えるなり。

さて又動悸あれば上(ウハ)づりに成るものと知るべし。上逆して耳のドンドンと鳴ると云うなどは、やはり動脈の耳中にてうつ響きなり。心下の悸ある人は眩暈するものなり。

几(ツクヘ)上にて書き物して、俄(にわか)に立ち上がれば昏倒するは肩のつかえたるもあれども、先ずは動悸の急に立ち上がりたる故に、一際(ヒトキ)ははげしく心下に逼りたるなり。早く心下を按ぜば昏倒せず。子玄子の禁暈術の意を解すべし。

又奔豚気の味も知るべし。心下に言ぶんのあるは、多くは気を塞ぐ。故に或いは立ちくらみなどして、気を失うこともあり、苓桂朮甘湯の意味知るべし。

腸癰(ちょうよう)は腹候にて決するものなり。臍下少腹の辺に塊ありて、指もつけることならぬほど痛み、皮膚甲錯するとて潤いなくサラサラとなりて腹痛はげしく腹内雷鳴して、徳利より水にてもこぼす如くの音もあり。又杓にて水汲みかえす如くの音のするは是膿を作したるなり。

さて指を付けても痛むと云うもの、常の積にもあれども、腫物の膿をもつと云う処へさわるものなれば、痛む様子(ヨウス)も按じた処もわかるものなり。半産に多し。

産後と食傷の後、腹痛するは油断すべからず、度々ある病気なり。膿血を下してから腸癰なりと云ては医者の見識はなきなり。猶詳らかなることは腸癰の時に語らん。

塊物を下す事、至て手際の入ることなり。又大事のことなり。大概は下らぬものなり。又自ら下ることはあるべし。塊物の臍以上にあるは益(ますます)くだり難し。

婦人の塊下りやすし。撃ても攻めても動かぬ塊は必ずつよく長戦はならず、命までを攻め殺すなり。大積大聚は侵すべからずと古も言えり。夫れ故害をなさずば大概はこらえて無理に療治すべからず。

姙娠の見ようは腹候第一なり。子玄子の産論並びに産論翼に詳なれども、賀川家に親炙して学ぶべし。委しくは猶、婦人の病論に詳らかに語らん。

さて心得の一条は、病にての経閉は不順の至り、瘀血の為すことなれば腹にも云分あるべきに、腹候に心にかかるほどの悪候もなく常に不順にもなき、経水の滞りたらば妊娠なりと知るべし。二月目にては知れかねるも多し。

又崩漏脱血の後、娠むこと産論にもある通り、時々あることなれば心を用いて兼日のことを尋問して参伍すべし。

常に腹の鳴りて下りやすき人、動悸もありて胸膈に痞えて心下うるさく、気を塞ぎ、肋骨の下通りを按ぜば腰の方へ響くは疝気なり。

さて疝積はいろいろの証に見ゆるものなり。気を塞ぐ人は気を付けて参伍すべし。疝積多し。旧腹痛も旧痢も水腫にも疝を療じて功を得ること数々有り、疝は人々にあるものと知るべし。

手足の不自由か、引きつるなどの類は皆腹に根本の塊物あるものなり。左にあれば左あしく右にあれば右あしし。必ず手足へ目を付けては治せず、腹部にて病根を除くべし。

中風は全く此の因より発す故に、名義は叢桂偶記に詳にすれば読みて知るべし。中風の腹より発すると云うことは素問に、「岐伯曰く。病、伏梁と名づく、此れ風根なり」とあるは即ち此の意味なり。

水腫の腹満したるに臍の凸に出ることあり、凶候なり。腹満・鼓脹にも凸出することあり。臍を按じてみれば、あちらこちらへ移るなり、又悪候なり。また小児の啼泣するもの凸出するは、その啼泣するの因を極めて夫オさえ治せば、臍は低くなるものなり。夫れ故小児には凶悪とせず。

水腫にも脚気は猶更心下より水気を催すもの故に、心下を候えば未病を治すと云うほどに早く知るるなり。是は数人を見て、指下に水気の手ざわりを覚ゆるを第一の要とす。

腹は衣被の中にて候するもの故、眼(に)みるべからず、又腹の水気、初起は按じたる跡は皮下につくのみにて、手足の様にありありとくぼくはみえず。此の事を知りて候すべし。

婦人は肌に手のつくことを嫌うゆえ、医も亦是を憚(はばか)りて衣を隔てて候するときは知ること能わず。高貴の人は猶更此の行いありて腹候自由ならず。故に弁胎などには甚だ誤ることあり。左右に報して衣を隔てずに候すべし。

又初起の時、脚脛の内通りの骨上を按じて其の跡を指にて撫でれば、肉に指跡くぼんであるなり。目にて見ゆるまで知らずにいては医と云わんや。手馴るれば指を下せば手ざわりにて知るるなり、撫でて見るに及ばず。然れども初心にては知れざるものなり。精神を用いて診候すべし。

暗夜に脈を診しても、寸口に水気をもちたる肌は手ざわりにて知るものなり。白日には三指の跡、三部に窪んで見えるものゆえ、病者の手を引き込むのとき、心をつけて見つけて用に立ちたることも数々なり。

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