鍼灸医学の懐

痿論篇第四十四.

秋粛殺 枯れ始めた足の草花に、薄くクモが糸を引いている
 本篇では、「痿病」という手足の力が抜けて自由に動くことが出来なくなる病について述べられている。  現代における、筋ジストロフィーや膠原病、中でもシェーグレン症候群、多発性筋炎、全身性硬化症、結節性多発性動脈炎などに相当するのであろうか。 なんにしろ、ありふれた疾患に応用できるので、気血の変動変化のイメージトレーニングの資には、大変有用だと思う。  内経医学の養生の基本は、先ずは四季、陰陽の盛衰の変化に適った生活をその根幹とし、さらに飲食の節制、性生活の節制、そして精神情緒の安定の三つが必須であると説かれている。  本篇を通読するとお分かりいただけるように、痿病の内因の多くは、精神情緒の鬱積により、体内の熱が大きく身体上部に偏亢することで発症することがわかる。  これをそのまま用いて通用するほど現代病は簡単ではないが、現代病の構図の原形を見ることができる。  現代から見れば、穏やかな田園と荒涼たる原野が思い浮かぶ内経の時代にあって、すでにこのような病理による病が存在していたとは、驚きである。  内経成立が、春秋戦国時代であることを考えると、地方と都市部の隔たりは、我々の想像を超える幅があったのであろう。  翻ってこれからの現代を思うと、これら膠原病などの自己免疫疾患は、残念ながら今後益々増加するであろうと筆者は予測している。  また本篇中の筋攣に関して、現代では芍薬甘草湯で陰気を補う手法がよく見られるが、病理を考慮するならば、清熱を図るべきである。  さしずめ鍼灸では、筋攣を起こすような肝の鬱熱には、穴名通り筋縮穴がとてもよく奏効するので付記しておく。  さらに帯脉の機能について常々疑問に思うところがあったので、筆者の思うところを述べてみたい。  本文中の<陽明虚.則宗筋縱.帶脉不引>  「陽明虚すれば、則ち宗筋縱み、帶脉引かず」のくだりに対して、歴代の医家の注釈は、臨床的にしっくりと来るものが無かった。 そこで帯脉に関して、以下の三文献を照らし合わせ、筆者の考察の過程を記してみたい。  「霊枢・経別」では、足少陰経別流注は、十四椎下で帯脉に属している。  また「難経・二十八難」では、季脇に起こり、回りて身一周す。  「奇経八脈考」では、足厥陰の章門穴から起こり、腹部の足少陽流注に沿って帯脉穴に至って一周する。  この三文献から、 筆者は、帯脉の流注は線ではなく、幅をもって腰腹部を取り囲んでいる様=文字通り幅のある帯を以て命名したのであり、機能を以てして命名したのでは無いと考えている。  しかも帯脉の機能は、諸脈を束ねることがその主な機能では無いとも考えている。    また、「難経二十九難」に、帯脉の病は、腹の膨満感と腰の脱力と、水中に座するような冷えの状態が示されており、生理不順や帯下など下半身の冷えと虚の症状が現わされている。  さらに 、「鍼灸大全」では、脳血管障害を思わせるような麻痺症状の他、結膜炎、歯痛、咽喉腫、耳聾など、上半身の熱、迫血妄行を思わせる症状が多く記載されている。  帯脉が諸脈を束ねているのであれば、帯脉が失調した場合に経絡間の不調和の症候がもっと記載されていてもいいはずであることを鑑みると、やはり諸家の説では臨床に用いるには不足に感じる。
 そこで筆者は、帯脉主治穴である足少陽の臨泣穴に注目した。  足少陽は、自経の流注上に腎の募穴、京門を擁している。  さらに足三陰の枢(血の気機)である腎、足三陽の枢(気の気機)である足少陽はともに「枢」として協調関係にある。  足少陽の枢機能は、腎気により保証され、腎の陰陽の平衡は足少陽により具体化される。 、このような観点から、帯脉は、前後・左右の枢、開・合の枢であるだけでなく、帯脉ラインは上下の枢でもあると筆者は考える。  このような観点で、足少陽の臨泣穴を位置づけると、いわゆる冷えのぼせなどの気滞化熱から陰虚傾向に向かう者に用いるなど、臨床応用の幅が大きく広がる。  このように表現すれば、何でもありとの感があるかもしれないが、ある特定の経絡・部分だけが失調することなど、臨床的にはあり得ないはずである。  本来、事象は「分けて分けられないもの」である。  にもかかわらず、文字にして表現するとなると、敢て全体の関係性を切り分けて認識して表現せざるを得ないのである。  単純化して、イメージとして心に映ればそれでよいと、筆者は考えている。  また病証にある下腹部の宗筋が緩んで腹に力が入らず、足が立たなくなるのは、陽明の虚であるか、もしくは陽明の虚に乗じて邪が下注した為である。  したがって、「帯脉引かず」とは、昇った気が下行できない状態であると理解した。  治療目標を本文中では、衝脉、帯脉、督脈の関係を示した上で足陽明に求めている。  衝脉、帯脉、督脈は腎経の別枝であることを鑑みると、結果として腎陰が虚し、腎陽の偏亢を来す要因が主な病理機序をではないかと考えている。  複雑に過ぎると思われる諸氏もおられると思います。  読者諸氏のご意見を、お待ちしております。  
 
原 文 意 訳
 黄帝が問うて申された。
 五臓の病変により、まるで草木が枯れ、しおれるかのように手足が痩せ、その用を為さなくなる痿病になるのは、どのような訳であろうか。
 岐伯がそれに対して申された。
 肺は身体の皮毛を主ります。
 心は身体の血脉を主ります。
 肝は身体の筋膜を主ります。
 脾は身体の肌肉を主ります。
 腎は身体の骨髄を主ります。
 従いまして、肺が熱しますと、肺葉は焦げて津液の潤いをなくし、枯れてきますので皮毛もまた焦げたようになり虚弱となります。
 邪熱が肺を急迫しますと、肺葉は一気に枯れ衰え、全身の気は上部に集まり下りないので、痿躄(いへき)、いわゆる足なえの状態となります。
 心気が何らかの原因で化熱いたしますと、熱の激しい上昇作用によって下半身の気血もまた上昇します。
 すると下半身の気は虚し、結果下半身は冷え上実下虚となる脉痿となります。そうなりますと腕の関節は動かすことが出来なくなり、脛は弛んで大地を踏んで立つことが出来なくなります。
 同様に、肝気が化熱いたしますと、熱によって胆腑が弛み、胆汁が口内に昇ってくるので口中に苦味を感じます。
 さらに筋膜は熱で乾かされますので、筋が引きつれたりけいれんを起こします。そして次第に筋痿となるのであります。
 脾気が化熱いたしますと、熱が胃を乾かしますので、渇して水を飲みたがるようになります。そうしますと肌肉を十分養うことが出来ませんので、感覚異常を起こし、肉となります。
 腎気が化熱いたしますと、陰気が消耗しますので骨は枯れ、髄は減少し、背骨を伸ばすことも腰を挙げることもできなくなり、骨痿となります。
 帝が申された。
 どのような病因病理で痿病となるのか。
 岐伯が申された。
 肺と申しますは、臓の長でありますから、最も高い位置にあり、しかも心に覆いかぶさる蓋のようであります。
 ですから大いに失望したり、大いに望んで事物・物事が得られなかったり、さては思いが成し遂げられず、しかもそれらの感情や思いが表現されませんと、鬱して熱となるのであります。
 そうしますと熱は昇って肺葉を激しく揺さぶりますので、喘鳴を発するようになり、長期化いたしますと肺葉は熱のために次第に潤いを無くし、焦げてまいるのであります。
 従いまして、痿躄は五臓の全てが失調して発症するのですが、最終的には、いずれかの臓に激しい熱がありますと、やがて臓の長であり蓋である肺葉が熱せられ焦げることになるのであります。
 悲哀の情が甚大でありますと、気血は上に集まってしまい、下ることが出来なくなります。
 そうなりますと、心と膀胱を繋いでいる胞絡が通じなくなり、上部で鬱し出口がなくなった陽気は猛々しく動き回ります。
 そして心の門である心下が敗れ崩れ、一気にその熱が下に降りますと、熱が膀胱腑に迫り傷り、小便から出血するようになるのであります。
 その故に「本病」では、大経が空虚になると、肌痺を発症し、やがて脉痿となると記されているのであります。
 男女関係で、互いに慕い思うところがあり、その上想像が際限なく深まり、しかもその欲求に満たされるということがありませんと、心はいつも対象に向かって上部で留まります。
 そのような状況でお互いが出会い、房に入って性関係を設け、さらにそれが甚だしいと終には宗筋は弛緩して筋痿を発症し、男子は遺精、女子は白帯が下る白淫となるのであります。
 それ故に、「下経」では、筋痿は肝に生じて精気を使い果たしてしまうからであると、記されているのであります。
 気づかないうちにジワジワと湿気に侵されることがあります。
 よくありがちなのは、水を扱うような仕事に従事し、もしくは湿気が留まっているような所に居住していますと、内外共に湿気が盛んとなりますので、肌肉はいつも濡れて水につかっているかのようになります。
 そのような状態にあると、まずは病となって知覚麻痺が生じ、ついには肉痿を発症するに至るのであります。
 それ故に、「下経」では、肉痿は湿地によって得るのだと、記されているのであります。
 長距離を歩いて疲労困憊してしまい、たまたま大暑に中りますと水を飲みたがるものであります。
 ところが水を飲む機会が無く、この渇した状態が続きますと、陽気が内にこもって内熱の邪気となります。
 この内熱は深く腎に舍って、傷害するようになります。
 腎と申しますは、水臓であります。
 今邪熱が火となりますと水は勝つことが出来ませんので、骨は枯れ髄は虚してしまいます。
 したがいまして足に身を任せて立つことが出来なくなり、ついには骨痿を発症するのであります。
 その故に、「下経」では、骨痿は大熱によって生じるのであると、記されているのであります。
 帝が申された。
 何を以て鑑別するのであるか。
 岐伯が申された。
 肺熱のものは、顔色が白く、毛が抜け落ちます。
 心熱のものは、顔色が赤く、絡脉が充満して鬱血いたします。
 肝熱のものは、顔色が蒼く、爪が枯れてスジが目立ってきます。
 脾熱のものは、顔色が黄色く、ゆっくりとうごめくように動きます。
 腎熱のものは、顔色が黒く、歯が枯れたかのようになります。
 帝が申された。
 そちの申していることは、もっともである。
 しかし論に、痿を治するにはただ陽明を取ると言及しているのは、どのような意味からであろうか。
 岐伯が申された。
 陽明は五臓六腑の海でありまして、宗筋を潤すことを主っております。宗筋は骨を束ねることを主っておりまして、関節の動きを円滑にいたします。
 また衝脉と申しますは、経脉の海でありまして、筋肉の割れ目までしっかりと浸透して潤す働きがあり、宗筋で陽明と一体となります。
 陰である衝脉と、陽である陽明は、鍋とその蓋のような関係でありまして、両者は気街で会合して宗筋を統括しているのであります。
 さらに陽明は、その宗筋の長でありながらも、帯脉に属し、帯脉を通じて督脈を絡っております。
 従いまして、陽明が虚しますと宗筋は弛んでしまい、帯脉もまたその上下・昇降の機能を全うできず、上実下虚となりますので、足が萎えて思うように立ち歩きができなくなるのであります。
 帝が申された。
 これを治するには、どうすればよいのか。
 岐伯が申された。
 それぞれ病んでいる経絡の穴を補ってその兪穴を通じさせ、全体の虚実を調え、自然の気候に適うような本来のあるべき気の状態になるように調和させるのであります。
 筋脉骨肉なども、つまり四時陰陽と五臓との関係において治療すれば、痿病は治るものであります。
 帝が申された。
 なるほど、よく分かった。
原文と読み下し
黄帝問曰.五藏使人痿.何也. 岐伯對曰. 肺主身之皮毛. 心主身之血脉. 肝主身之筋膜. 脾主身之肌肉. 腎主身之骨髓. 故肺熱葉焦.則皮毛虚弱.急薄著則生痿躄也. 黄帝問うて曰く。五藏の人をして痿せしむるは、何なるや。 岐伯對して曰く。 肺は身の皮毛を主る。 心は身の血脉を主る。 肝は身の筋膜を主る。 脾は身の肌肉を主る。 腎は身の骨髓を主る。 故に肺熱して葉焦すれば、則ち皮毛虚弱なり。急薄して著すれば則ち痿躄(いへき)を生ずるなり。 心氣熱.則下脉厥而上.上則下脉虚.虚則生脉痿.樞折挈.脛縱而不任地也. 肝氣熱.則膽泄口苦.筋膜乾.筋膜乾.則筋急而攣.發爲筋痿. 脾氣熱.則胃乾而渇.肌肉不仁.發爲肉痿. 腎氣熱.則腰脊不擧.骨枯而髓減.發爲骨痿. 心氣熱すれば、則ち下脉厥して上る。上れば則ち下脉虚す。虚すれば則ち脉痿を生ず。樞は折挈(せっけい)して、脛縱みて地に任(まか)せざるなり。 肝氣熱すれば、則ち膽は泄して口苦く、筋膜乾く。筋膜乾けば、則ち筋急して攣す。發して筋痿と爲る。 脾氣熱すれば、則ち胃乾きて渇し、肌肉は不仁す。發すれば肉痿と爲る。 腎氣熱すれば、則ち腰脊は擧らず、骨枯れ髓減す。發すれば骨痿と爲る。 帝曰.何以得之. 岐伯曰. 肺者藏之長也.爲心之蓋也. 有所失亡.所求不得.則發肺鳴.鳴則肺熱葉焦. 故曰.五藏因肺熱葉焦.發爲痿躄.此之謂也. 帝曰く。何を以てこれを得るや。 岐伯曰く。 肺なる者は藏の長なり。心の蓋を爲すなり。 失亡する所有りて、求める所を得ざれば、則ち發して肺鳴す。鳴すれば則ち肺熱し葉は焦す。 故に曰く。五藏肺熱に因りて葉焦し、發して痿躄と爲る。此れこの謂いなり。 悲哀太甚.則胞絡絶.胞絡絶則陽氣内動.發則心下崩.數溲血也. 故本病曰大經空虚.發爲肌痺.傳爲脉痿. 悲哀太甚なれば、則ち胞絡絶す。胞絡絶すれば則ち陽氣内に動ず。發すれば則ち心下崩れ、數しば溲血(しゅうけつ)するなり。 故に本病に曰く、大經空虚にして、發すれば肌痺と爲り、傳わりて脉痿と爲る。 思想無窮.所願不得.意淫於外.入房太甚.宗筋弛縱.發爲筋痿.及爲白淫. 故下經曰.筋痿者.生於肝.使内也. 思想に窮まり無く、願う所を得ず、意は外に淫し、房に入ること太甚なれば、宗筋は弛縱し、發すれば筋痿と爲り、及び白淫を爲る。 故下經に曰く。筋痿なる者は、肝に生じ、内を使うなり。 有漸於濕.以水爲事.若有所留.居處相濕.肌肉濡漬.痺而不仁.發爲肉痿. 故下經曰.肉痿者.得之濕地也. 濕に漸すること有り、水を以て事を爲す。若くは留まる所有りて、居處と相い濕し、肌肉は濡漬(なんし)し、痺して不仁す。發すれば肉痿と爲る。 故に下經に曰く。肉痿なる者は、これを濕地に得るなりと。 有所遠行勞倦.逢大熱而渇.渇則陽氣内伐.内伐則熱舍於腎.腎者水藏也.今水不勝火.則骨枯而髓虚.故足不任身.發爲骨痿. 故下經曰.骨痿者.生於大熱也. 遠行勞倦する所有りて、大熱に逢いて渇す。渇すれば則ち陽氣内に伐(う)たる。内伐たれれば則ち熱は腎に舍る。腎なる者は水藏なり。今水、火に勝たざれば、則ち骨枯れて髓虚す。故に足に身を任せず。發すれば骨痿を爲す。 故に下經に曰く。骨痿なる者は、大熱に生ずるなりと。 帝曰.何以別之. 岐伯曰. 肺熱者.色白而毛敗. 心熱者.色赤而絡脉溢. 肝熱者.色蒼而爪枯. 脾熱者.色黄而肉蠕動. 腎熱者.色黒而齒槁. 帝曰く。何を以てこれを別つや。 岐伯曰く。 肺熱する者は、色白くして毛敗す。 心熱する者は、色赤くして絡脉溢(いつ)す。 肝熱する者は、色蒼(あお)くして爪枯れる。 脾熱する者は、色黄して肉蠕動(ぜんどう)す。 腎熱する者は、色黒くして齒槁(かれ)る。 帝曰.如夫子言可矣.論言.治痿者獨取陽明.何也. 岐伯曰. 陽明者.五藏六府之海.主潤(閏)宗筋.宗筋主束骨而利機關也. 衝脉者.經脉之海也.主滲潅谿谷.與陽明合於宗筋.陰陽總宗筋之會.會於氣街.而陽明爲之長.皆屬於帶脉.而絡於督脉. 故陽明虚.則宗筋縱.帶脉不引.故足痿不用也. 帝曰く。夫子の言の如きは可なり。論に言う。痿を治する者は獨り陽明を取るとは、何なるや。 岐伯曰く。 陽明なる者は、五藏六府の海、宗筋を潤(閏)すを主る。宗筋は骨を束ねて機關を利するを主るなり。 衝脉なる者は、經脉の海なり。谿谷を滲潅(しんかん)するを主り、陽明と宗筋に合す。陰陽は宗筋の會を總(す)べ、氣街に會す。しかして陽明これを長と為す。皆帶脉に屬して、督脉を絡う。 故に陽明虚すれば、則ち宗筋縱み、帶脉引かず。故に足痿して用いざるなり。 ※甲乙経に倣い、閏を潤に作る。 帝曰.治之奈何. 岐伯曰.各補其而通其兪.調其虚實.和其逆順.筋脉骨肉.各以其時受月.則病已矣. 帝曰善. 帝曰く。これを治すこといかん。 岐伯曰く。各おの其の滎を補して其の兪を通じず。其の虚實を調え、其の逆順を和す。筋脉骨肉、各おの其の時を以て月を受ければ、則ち病已むなり。 帝曰く、善し。

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