本篇は表題のように、一般的な健康人の脈象を異常な脈象と対比させて述べようとしているのであろう。
ともすれば、異常な脈象の解明に意識が向きがちだが、やはり四季に適った正常な脈象を捉え、自然に適った脈象に戻すという術者の意識が必要である。
自然に適った脈象に戻すには、単に病気や症状を取り去るということに留まらない。
それには、自然の理に適った心の有り様、飲食の有り様、衣服や日常の所作に至る幅の広い視点が必要である。
『医は病まず」
誠に謹厳にして行い難いことであるが、医療者が悩んだり病んでいては、治療もおぼつかないのは真言である。
脈象に関しては、『胃の気』の大事を説いているが、これは金言である。
胃の気はどのような脈象であるのか触れるところはないが、歴代の医家は様々に表現しているが、筆者の感覚で表現するなら、求心性のある緩脉で『艶のある脉』である。
臨床に携わる初学の諸氏は、患者の顔の表情から伝わってくるものと参伍されると、言語を越えた感覚を読み取れるものと思う。
滑・濇と言っても、100人いれば100通りの滑・濇がある。
本来、言葉では表現できない主観的、感覚的なものをなんとか後輩である我々に伝えようとしているが、全てを汲みとるにはやはり力量が必要だと痛感している。
記載されてることを自分なりの解釈とイメージで、真摯に臨床を続けて参ります。
原 文 意 訳
黄帝が問うて申された。一般的に正常な人の脉象とは、どのようであるのか。
岐伯が対して申された。
人は一回の吐く息に二回拍動し、一回の吸う息に二回拍動致します。これを脈拍を計るときの定息と致しまして、四拍動であります。ところが大きな呼吸をいたしますと、五拍動となりますので呼吸の大きさを意識して調整致します。これを正常な人、つまり平人と申します。
平人と申しますのは、健康で病気をしない者のことであります。
常にこの平人の脉象を基準として、病める人の気を整えるのでありますから、医者が病んでいては、話にならないのであります。
従いまして、医師は病人のために心身を鎮め、呼吸を整え、自分自身の呼吸を基準として患者の気を整えることを定法と致します。
人の一呼に一拍動、一吸に一拍動するのは、少気と申します。
人の一呼に三拍動、一吸に三拍動して騒がしく落ち着かない感じがし、尺膚に熱があるようであれば、温病であります。尺膚に熱が無く脉の去来がなめらかな滑脉を呈しておりましたら風病であり、脉の去来が渋っている濇脉を呈しておりますとこれは痺病であります。
人の一呼に四拍動以上でありますと、死するものであります。脉が絶えて去来しない者も死するものでありまして、短時間の間に脈拍がまばらになったり速くなったりするものも死するのであります。
平人の常気は、胃の気から受けたものであります。ですから胃の気は、平人の常気の根と言えるのであります。
人に胃の気がない時を、逆と申しまして、逆でありますと死するものであります。
春は胃の気に弓の弦のような微弦であるのが平常であります。弦が多く胃の気が少ない場合は、肝を病んでおります。
ただ弦のみで胃の気の無いものは死証であります。
胃の気に鳥の羽根のような毛脉が現れていれば、秋に発病いたします。
毛が甚だしいようでありますと、今もうすでに病んでおります。
五臓の真気は、春には肝が旺じてこれを発散し、肝は筋膜の気を蔵しております。
夏は胃の気にかぎ針のように少し引っかかるような微鉤であるのが平常であります。
鉤が多く胃の気の少ない場合は、心を病んでおります。
ただ鉤のみで胃の気の無いものは死証であります。
胃の気に深く按じなければ触れることの出来ない石脉が現れていれば、冬に発病致します。
石が甚だしいようでありますと、今もうすでに病んでおります。
五臓の真気は、夏には心がこれを全身に通じさせ、心は血脉の気を蔵しております。
長夏は胃の気に柔らかい微耎であるのが平常であります。弱が多く胃の気の少ない場合は、脾を病んでおります。
ただ規則的に休止する代脉を呈して胃の気が無いものは死証であります。
耎弱に石脉が現れていれば、冬に発病致します。
なよなよとした弱脉が甚だしいようでありますと、今もうすでに病んでおります。
五臓の真気は、長夏には脾が濡らして柔らかくし、脾は肌肉の気を蔵しております。
秋は胃の気に微かに鳥の羽根に触れるような毛脉であるのが平常であります。毛が多く胃の気の少ない場合は、肺を病んでおります。
ただ毛のみで胃の気の無いものは、死証であります。
毛に弦が現れておりますと、春に発病致します。
弦が甚だしいようでありますと、今もうすでに病んでおります。
五臓の真気は、秋に天蓋であります肺に集まり、営衛・陰陽の気をめぐらせるのであります。
冬は胃の気に微かに堅く沈んだような石脉であるのが平常であります。
石が多く胃の気の少ない場合は、腎を病んでおります。
ただ石のみで胃の気の無いものは、死証であります。
石に鉤が現れておりますと、夏に発病致します。
鉤が甚だしいようでありますと、今もうすでに病んでおります。
五臓の真気は、腎に下り、腎は骨髄の気を蔵するのであります。
胃の大絡を、名づけて虚里と申します。膈を貫きまして肺を絡い、左の乳下に出ます。
その気の動きは、衣服の上から触れますと、それと分かるものでございます。これは脉の大元の気であります。
盛んに喘いでしばしば虚里の動が絶えるものは、腹中に病がございます。
不定期に虚里の動が止まったかと思うと大きく拡がるように拍ち出すのは、腹中に積がございまして、虚里の動が途絶え、手に感じなくなると死するものでございます。
乳下の虚里の動が、衣服の上から目でその動きが認識できるようでありますと、大元の気、つまり宗気が泄れている状態であります。
寸口の脉の、大過と不及によって生じる人体の状態をお知りになりたいのでありましたら、以下の点を意識して按じて下さい。
さらに脈拍が速く不定期に一休する促脈を得て、上に突き上げるかのように感じますのは、陽気が有余している上に邪気も盛んであるため、肩背が痛んでおると、このように診るのであります。
さらに寸口の脉が沈で堅く感じるものは、病が身体内部にありまして、浮で盛んな感じがするものは、病が外部にあります。
寸口の脉が沈で弱く感じるものは、寒熱、及び疝瘕(せんか)、少腹が痛みます。
寸口の脉が、沈でセカセカとせわしなく拍つものは、寒熱の病であります。
※疝瘕…下腹部が熱痛し、尿道から白い粘液が出る病症。
※横…ほしいまま、気まま
脉が盛んで滑脉が堅く感じるものは、病が身体外部にあります。
脉が小さく実して堅く感じるものは、病が身体内部にあります。
脉が小さくて弱く、去来が渋っている濇脉でありますと、これは久病でありまして、脉の去来がなめらかな滑脉で浮いて速いものは、新病であります。
脉が急でありますと、疝瘕で少腹が痛みます。
脉が滑でありますのは風であり、濇でありますのは痺であります。緩にして滑でありますのは、胃腸に熱が留滞している熱中であり、盛んで緊張しておりますのは、脹であります。
脉が陰陽の法則に適っていますと、病は治まりやすいのですが、これに逆らっておりますと治り難いのであります。
脉が四季の気に順応しておりましたなら、他病は無いのですが、これに反していたり病が五行の相剋関係で伝わったりしておりますと、治り難いものであります。
前腕の尺膚に青い脉が現れるのは、脱血であります。
尺膚と脉が共に緩で濇であれば、身体が疲れ、骨節に倦怠を感じる解㑊(かいえき)と称する精気不足の状態となります。
静かに寝ているのに脉が盛んであるのは、陽気が過剰であるために脱血を起こす可能性が高いものです。
尺膚が濇で脉が滑であるのは、陽気が有余しており多汗であります。
尺膚が寒えて脉が細いのは、陰気が有余しており下痢をいたします。
脉と尺膚が共に粗く常に熱するものは、これは腸胃に熱が留滞している熱中であります。
肝木の真臓の脈が、金性の庚辛の日に現れますと死するものであります。
同じように心火の脉が壬癸、肺金の脉が丙丁、腎水の脉が戊己に現れますと、皆死するものであります。これらはつまり、相侮関係に真臓の脈が現れると皆死するということでもあります。
頸部の脉が甚だしく拍ち、喘ぎが速く咳をするのは、水邪であります。
小便の色が黄赤色で寝ることを好むものは、身体が黄色くなる黄疸であります。
食事を終えても飢えた感じがするのは、胃に熱を持った胃疸であります。
さらに顔面がむくむようでしたら風であり、足の脛がむくむようでしたら水邪であり、目が黄色くなるようでしたら黄疸であります。
婦人の足の少陰の脈動が甚だしいものは、妊娠の徴であります。
脉象は、四季と逆従することがございます。
未だ真臓の脈状を現さなくとも、春夏に脉が痩せていたり、秋冬に脉が浮いて大であったりするのは、これは四季の気に適っていないので逆であります。
風熱の病であるのに脉が静かであり、下痢をしたり脱血しているのに脉が実であり、病が身体内部にあるのに脉が虚であり、病が外部にあるのに脉が渋って堅く感じるのは、すべて自然の理に反しており、四季の気に反しているので治し難いものであります。
人の生命活動は、水穀を本としているのでございますから、水穀が絶たれると死するものであります。
このことは脉象においても同様でございまして、脈象に胃の気がない場合もまた、死するものであります。
いわゆる胃の気が無い脈と申しますのは、ただ真臓の脉だけで胃の気の無い脉のことであります。
さらに申しますと、胃の気の無い脉と申しますのは、肝の脉が微弦、腎の脉が微石でない、純弦・純石ということであります。
少陽・陽明・太陽というのは、人体においては臓を裹む袋であります。
その太陽の脉は「開」でありまして、その脉の至る様子は、大きく盛んである洪大で長であります。
少陽の脉は、「枢」でありまして、太陽と陽明の「開闔」を主り「枢」でありますので、その脉の至る様子は、たちまち速くなったり遅くなったり、また短になったり長になったり致します。
陽明の脈は、「闔」でありますので、その脉の至る様子は、浮いて大きく、太陽の脉に比べまして短く感じます。
正常な心の脉と申しますのは、数珠のように珠が連なったようでありまして、玉を撫でるようななめらかな、すべるような脉であります。
心が旺ずる夏には、胃の気の状態を本に微かに鉤脉であるかどうかで判断いたします。
心が病んでいる時の脉の来る感じは、脈と脈の休止がよく分からないくらいにセカセカと急速で、その中にわずかに鉤脉を感じるのであります。
死心の脉は、 その来たるときは鉤でありますが、去る時には堅く、脉がうずくまるかのような感じがしまして、ちょうど帯留めの金具に触れたかのようであります。これは心が死するものであります。
正常な肺の脉のと申しますのは、静かにささやくように楡の実を包む殻が秘かに落ちるようであります。
肺が旺ずる秋には、胃の気の状態を本に微かに毛であるかどうかで判断いたします。
肺が病んでいる時の脉の来る感じは、脉の上下・深浅の幅が無く、鶏の羽をなでるようで、毛脉ばかりが目立つ脉であります。
死肺の脉の来たり様は、水にものを浮かべたような、風が毛を吹くような頼りなく不定期な感であります。これは肺が死するものであります。
正常な肝の脉と申しますのは、柔らかくてしなやかであり、竹竿の先端を揚げたかのようにたわんで弾力を感じるものであります。
肝が旺ずる春には、胃の気を本に微かに弦脉であるかどうかで判断いたします。
肝が病んでいる時の脉の来る感じは、いっぱいに充ち溢れんばかりの充実した滑脉で、長く堅い竹竿の節をなでるかのようであります。
死肝の脉は、迫りくるように急で益々強く張りつめたかのようで、まるで新たに張った弓の弦のようであります。これは肝が死するものであります。
正常な脾の脉と申しますのは、適度に柔らかく調和しておりまして、一拍ずつの拍動が明瞭であります。それはあたかも、鶏が地を交互にはっきりを踏んで歩いている様であります。
脾が旺ずる長夏には、微かに緩脉であるかどうかで判断いたします。
脾が病んでいる時の脉の来る感じは、充実して力が有り、有り余るほど脉が速く、まるで鶏が疾走するかのようであります。
死脾の脉は、その来ること鋭くて堅く、まるで鶏のくちばしのようでもあり、鶏のけずめのようでもあります。さらに屋根から雨漏りがするようにゆっくりと、しかも不規則に去来したり、水が流れるように締まりなく柔軟に過ぎる感じが致します。これらは、脾が死するものであります。
正常な腎の脉と申しますのは、喘ぐように次々と去来し、鉤脉と似ているが按じると堅く感じます。
腎が旺ずる冬には、胃の気の状態を本に微かに石であるかどうかで判断いたします。
腎が病んでいる時の脉の来る感じは、葛の蔓を引っ張るかのように抵抗があり、これを按じると益々堅く感じます。
死腎の脉の来たり様は、綱を引き合うように堅く長く感じ、石を弾くように堅く充実に過ぎたる感じがするものは、腎が死するものであります。
原文と読み下し
黄帝問曰.平人何如.
岐伯對曰.
人一呼脉再動.一吸脉亦再動.呼吸定息.脉五動.閏以太息.命曰平人.
平人者.不病也.
常以不病調病人.醫不病.故爲病人平息.以調之爲法.
黄帝問うて曰く。平人は何如なるや。
岐伯對して曰く。
人は一呼に脉再動し、一吸に脉亦た再動し、呼吸は定息す。脉五動して、閏すれば太息を以てす。命じて平人と曰く。
平人なる者は、病まず。
常に病まざるを以て病人を調う。醫は病まず。故に病人の為に息を平らかにし、以てこれを調うを法と爲す。
人一呼脉一動.一吸脉一動.曰少氣.
人一呼脉三動.一吸脉三動而躁.尺熱.曰病温.尺不熱.脉滑曰病風.脉濇曰痺.
人一呼脉四動以上曰死.脉絶不至曰死.乍疏乍數曰死.
人の一呼に脉一動、一吸に脉一動するを少氣と曰く。
人の一呼に脉三動、一吸に脉三動にして躁、尺熱するを病温と曰く。尺熱せず、脉滑なるは病風と曰く。脉濇なるは痺と曰く。
人の一呼に脉四動以上なるを死すると曰く。脉絶えて至らざるを死と曰く。乍(たちま)ち疏にして乍ち數なるは死すると曰く。
平人之常氣稟於胃.胃者.平人之常氣也.
人無胃氣曰逆.逆者死.
平人の常氣は胃に稟(う)く。胃なる者は、平人の常氣なり。
人に胃の氣無きを逆と曰く。逆なる者は死するなり。
春胃微弦曰平.弦多胃少曰肝病.但弦無胃曰死.胃而有毛曰秋病.毛甚曰今病.藏眞散於肝.肝藏筋膜之氣也.
春は胃微弦なるを平と曰く。弦多く胃少なきを肝病むと曰く。但弦のみにして胃無きは、死すると曰く。胃にして毛有るを秋に病むと曰く。毛甚だしきを今病むと曰く。藏の眞は肝に散ず。肝は筋膜の氣を藏するなり。
夏胃微鉤曰平.鉤多胃少曰心病.但鉤無胃曰死.胃而有石曰冬病.石甚曰今病.藏眞通於心.心藏血脉之氣也.
夏は胃微鉤なるを平と曰く。鉤多く胃少なきを心病むと曰く。但鉤のみにして胃無きは、死すると曰く。胃にして石なるは冬に病むと曰く。石甚だしきを今病むと曰く。藏の眞は心に通ず。心は血脉の氣を藏するなり。
長夏胃微耎弱曰平.弱多胃少曰脾病.但代無胃曰死.耎弱有石曰冬病.弱甚曰今病.藏眞濡於脾.脾藏肌肉之氣也.
長夏は胃微耎弱(ぜんじゃく)なるを平と曰く。耎弱多く胃少なきを脾病むと曰く。但代のみにして胃無きを死すると曰く。耎弱にして石有るを冬病むと曰く。弱甚だしきを今病むと曰く。藏の眞は脾を濡す。脾は肌肉の氣を藏するなり。
秋胃微毛曰平.毛多胃少曰肺病.但毛無胃曰死.毛而有弦曰春病.弦甚曰今病.藏眞高於肺.以行榮衞陰陽也.
秋は胃微毛なるを平と曰く。毛多く胃少なきを肺病むと曰く。但毛のみにして胃無きを死すると曰く。毛にして弦有るを春病むと曰く。弦甚だしきは今病むと曰く。藏の眞は肺に高(のぼ)り、以て榮衞陰陽を行(めぐ)らすなり。
冬胃微石曰平.石多胃少曰腎病.但石無胃曰死.石而有鉤曰夏病.鉤甚曰今病.藏眞下於腎.腎藏骨髓之氣也.
冬は胃微石を平と曰く。石多く胃少なきを腎病むと曰く。但石にして胃無きを死すると曰く。石にして鉤有るを夏病むと曰く。鉤甚だしきは今病むと曰く。藏の眞は腎に下る。腎は骨髓の氣を藏するなり。
胃之大絡.名曰虚里.貫鬲絡肺.出於左乳下.其動應衣.脉宗氣也.
盛喘數絶者.則病在中.結而横.有積矣.絶不至曰死.
乳之下.其動應衣.宗氣泄也.
胃の大絡は、名づけて虚里と曰く。鬲を貫き肺を絡い、左乳下に出ず。其の動は衣に應ず。脉の宗氣なり。
盛んにして喘(あえ)ぎ數しば絶する者は、則ち病中に在り。結して横なるは、積有るなり。絶して至らざるは資すると曰く。
乳の下、其の動衣に應ずるは、宗氣泄れるなり。
欲知寸口太過與不及.寸口之脉.中手短者.曰頭痛.
寸口脉.中手長者.曰足脛痛.
寸口脉.中手促上撃者.曰肩背痛.
寸口脉.沈而堅者.曰病在中.
寸口脉.浮而盛者.曰病在外.
寸口脉.沈而弱.曰寒熱.及疝瘕少腹痛.
寸口脉.沈而横.曰脇下有積.腹中有横積痛.
寸口脉.沈而喘.曰寒熱.
寸口の太過と不及を知らんと欲せば、寸口の脉、手に中たること短なる者は、頭痛と曰く。
寸口の脉、手に中ること長なる者は、足脛痛むと曰く。
寸口の脉、手に中ること促にして上に撃つ者は、肩背痛むと曰く。
寸口の脉、沈にして堅なる者は、病中に在りと曰く。
寸口の脉、浮にして盛なる者は、病外に在りと曰く。
寸口の脉、沈にして弱なるは、寒熱、及び疝瘕(せんか)少腹痛むと曰く。
寸口の脉、沈にして横なるは、脇下に積有りと曰く。腹中に横積有りて痛む。
寸口の脉、沈にして喘するは、寒熱と曰く。
脉盛滑堅者.曰病在外.
脉小實而堅者.病在内.
脉小弱以濇.謂之久病.
脉滑浮而疾者.謂之新病.
脉急者.曰疝瘕少腹痛.
脉滑曰風.脉濇曰痺.
緩而滑.曰熱中.
盛而緊.曰脹.
脉盛んにして滑堅なる者は、病外に在りと曰く。
脉小實にして堅なる者は、病内に在り。
脉小弱にして以て濇なるは、これを久病と謂う。
脉滑浮にして疾き者は、これを新病と謂う。
脉急なる者は、疝瘕少腹痛むと曰く。
脉滑なるを風と曰く。脉濇なるを痺と曰く。
緩にして滑なるは、熱中と曰く。
盛にして緊なるは、脹と曰く。
脉從陰陽.病易已.
脉逆陰陽.病難已.
脉得四時之順.曰病無他.
脉反四時.及不間藏.曰難已.
脉の陰陽に從うは、病已え易し。
脉の陰陽に逆するは、病已え難し。
脉の四時の順を得るは、病他に無しと曰く。
脉の四時反し、及び間藏せざるは、已え難しと曰く。
臂多青脉.曰脱血.
尺脉緩濇.謂之解㑊.
安臥脉盛.謂之脱血.
尺濇脉滑.謂之多汗.
尺寒脉細.謂之後泄.
脉尺麤常熱者.謂之熱中.
臂に青脉多きを、脱血と曰く。
尺脉緩濇なるを、これを解㑊(かいえき)と謂う。
安臥して脉盛んなるを。これを脱血と謂う。
尺濇にして脉滑なるを、これを多汗と謂う。
尺寒(ひ)え脉細なるを、これを後泄と謂う。
脉尺麤(そ)にして常に熱する者を、熱中と謂う。
肝見.庚辛死.心見.壬癸死.脾見.甲乙死.肺見.丙丁死.腎見.戊己死.是謂眞藏見.皆死.
頸脉動.喘疾欬.曰水.
目裹微腫.如臥蠶起之状.曰水.
溺黄赤安臥者.黄疸.
已食如飢者.胃疸.
面腫.曰風.足脛腫.曰水.目黄者.曰黄疸.
婦人足(手)少陰脉動甚者.姙子也.
肝は庚辛に見われば死す。心は壬癸に見われば死す。脾は甲乙に見われば死す。肺は丙丁に見われば死す。腎は戊己に見われば死す。是れ眞藏見われば、皆死すと謂う。
頸の脉動じて喘ぎ、疾欬するを、水と曰く。
目裹(もくか)微しく腫れ、臥蠶(がさん)の起るの状の如きを、水と曰く。
溺黄赤にして安臥する者は、黄疸たり。
已に食して飢えるが如き者は、胃疸たり。
面腫れるを風と曰く。足脛腫れるを水と曰く。目黄する者は、黄疸と曰く。
婦人足(手)の少陰脉甚だ動ずる者は、子を姙(はら)むなり。
脉有逆從四時.未有藏形.春夏而脉痩.秋冬而脉浮大.命曰逆四時也.
風熱而脉靜.泄而脱血脉實.病在中脉虚.病在外脉濇堅者.皆難治.命曰反四時也.
人以水穀爲本.故人絶水穀則死.脉無胃氣亦死.所謂無胃氣者.但得眞藏脉.不得胃氣也.
所謂脉不得胃氣者.肝不弦.腎不石也.
脉に四時の逆從有り。未だ藏形有らず。春夏にして脉痩、秋冬にして脉浮大なるを命じて四時に逆すと曰うなり。
風熱にして脉靜、泄して脱血し脉實し、病中に在りて脉虚し、病外に在りて脉濇にして堅なる者は、皆治し難し。命じて四時に反すと曰うなり。
人は水穀を以て本と爲す。故に人の水穀絶すれば則ち死す。脉に胃の氣無きもまた死す。所謂胃の氣無き者とは、但だ眞藏の脉を得て、胃の氣を得ざるなり。
所謂脉に胃の氣を得ざる者とは、肝は弦ならず、腎は石ならざるなり。
太陽脉至.洪大以長.
少陽脉至.乍數乍疏.乍短乍長.
陽明脉至.浮大而短.
太陽の脉の至るや、洪大にして以て長し。
少陽の脉の至るや、乍ち數乍ち疏、乍ち短乍ち長たり。
陽明の脉の至るや、浮大にして短なり。
夫平心脉.來累累如連珠.如循琅玕.曰心平.夏以胃氣爲本.
病心脉.來喘喘連屬.其中微曲.曰心病.
死心脉.來前曲後居.如操帶鉤.曰心死.
夫れ心平の脉の來たるや、累累として珠の連らなるが如く、琅玕(ろうかん)に循(したが)うが如きを、心の平と曰く。夏は胃の氣を以て本と爲す。
病心の脉、來たること喘喘として連屬し、其の中微しく曲るを心病むと曰く。
死心の脉、來たること前曲後居し、帶鉤を操るが如きを、心死すると曰く。
平肺脉.來厭厭聶聶.如落楡莢.曰肺平.秋以胃氣爲本.
病肺脉.來不上不下.如循鶏羽.曰肺病.
死肺脉.來如物之浮.如風吹毛.曰肺死.
平肺の脉の來たるや、厭厭(えんえん)聶聶(じょうじょう)として楡莢(ゆきよう)の落るが如きを肺の平と曰く。秋は胃の氣を以て本と為す。
病肺の脉、來ること上ならず下ならず、鶏羽に循うが如きを、肺病むと曰く。
死肺の脉、來たること物之の浮かぶが如く、風の毛を吹くが如きを、肺死すると曰く。
平肝脉.來耎弱.招招如掲長竿末梢.曰肝平.春以胃氣爲本.
病肝脉.來盈實而滑.如循長竿.曰肝病.
死肝脉.來急益勁.如新張弓弦.曰肝死.
平肝の脉の來たるや耎弱、招招として長竿の末梢を掲るが如きを肝の平と曰く。春は胃の氣を以て本と為す。
病肝の脉、來たること盈實にして滑なること、長竿を循うが如きを肝病むと曰く。
死肝の脉、來たること急にして益ます勁(つよ)く、新たに張りたる弓弦の如きは、肝死すると曰く。
平脾脉.來和柔相離.如𨿸踐地.曰脾平.長夏以胃氣爲本.
病脾脉.來實而盈數.如𨿸擧足.曰脾病.
死脾脉.來鋭堅.如烏之喙.如鳥之距.如屋之漏.如水之流.曰脾死.
平脾の脉の來たるや和柔にして相離れること、𨿸の地を踐(ふ)むが如きを脾の平と曰く。長夏は胃の氣を以て本と為す。
病脾の脉、來たること實にして盈數なること、𨿸の足を擧げるが如きを、脾病むと曰く。
死脾の脉、來たること鋭く堅く、烏の喙(くちばし)の如く、鳥の距(きょ)の如く、屋の漏するが如く、水の流れるが如きは、脾死すと曰く。
平腎脉.來喘喘累累如鉤.按之而堅.曰腎平.冬以胃氣爲本.
病腎脉.來如引葛.按之益堅.曰腎病.
死腎脉.來發如奪索.辟辟如彈石.曰腎死.
平腎の脉の來たるや喘喘累累として鉤の如し。これを按じて堅きを腎の平と曰く。冬は胃の氣を以て本と為す。
病腎の脉、來たること葛を引くが如く、これを按(おさ)えて益ます堅きを、腎病むと曰く。
死腎の脉、來たり發すること索を奪するが如く、辟辟たること石を彈ずるが如きは、腎死すと曰く。
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