黄帝問曰.
余聞天以六六之節.以成一歳.人以九九制會.計人亦有三百六十五節.以爲天地久 矣.不知其所謂也.黄帝問うて曰く。
余は聞くに天は六六の節を以てし、以て一歳を成す。人は九九を以て制會し、計るに人も亦た三百六十五節有りと。以て天地を爲して久し、と。其の謂う所を知らざるなり。
黄帝が、問うて申された。
余は、天は六六の節を用いて一歳とし、人は九九を用いて時節の基準とする。これら二つの方法を用いて人を計れば、三百六十五節あり、天地に相応じて久しいと聞いている。しかしながらその言わんとする道理が理解できていないのだが、と。
岐伯對曰.昭乎哉問也.請遂言之.
夫六六之節.九九制會者.所以正天之度.氣之數也.
岐伯對えて曰く。昭らかなる問いや。請う、遂にこれを言わん。
夫れ六六の節、九九の制會なる者は、天の度、氣の數を正すゆえんなり。
天度者.所以制日月之行也.氣數者.所以紀化生之用也.
天爲陽.地爲陰.日爲陽.月爲陰.
天の度なる者は、日月の行りを制するゆえんなり。氣の數なる者は、化生の用を紀するゆえんなり。
天は陽と爲し、地は陰と爲し、日は陽と爲し、月は陰と爲す。
行有分紀.周有道理.日行一度.月行十三度而有奇焉. 故大小月三百六十五日而成歳.
積氣餘而盈閏矣.立端於始.表正於中.推餘於終.而天度畢矣.
行りに分紀有り、周に道理有り、日に行ること一度、月に行ること十三度にして奇有り。 故に大小の月、三百六十五日にして歳を成す。
氣餘りて積み、閏を盈たす。端を始に立て、正を中に表わし、餘りを終りに推す。しかして天度畢るなり。
岐伯が、これに対して申された。
なんと、光が隅々にまで届いているかのような問いであられますことでしょうか。いよいよこれについて申し上げる時が参りました。是非とも申し上げさせて頂きたい。
六六の節と九九の基準と申しますのは、いわゆる天の度と気の数のことであります。 天の度と申しますのは、いわゆる日月の運行に基準を設けて測ったものであります。
気の数と申しますのは、いわゆる万物が化生する作用を順序立てて整理したものであります。 天は陽であり、地は陰であります。さらに太陽は陽であり、月は陰であります。
太陽と月の運行の規律は異なっておりますが、めぐり方には共に道理があります。 太陽は一日一度行りますので一年は三百六十日となります。月は一年でおおよそ十二回、三百六十五日で満ち欠けいたします。
十二ヶ月の内には大小の月がありますが、仮に二十八日と致しまして、月を基準とした一年三百六十五日を二十八で割りますと、十三度となりまして、余りが生じてきます。
そして大小の月を合わせますと、三百六十五日で一年となるのでありますが、毎年生じる気の余りを積み重ねて計算し、閏月を設けて調整するのであります。月の気の余りを調整するには、太陽の一年三百六十日を正確に測る必要があります。
そこで棒を用いた日時計で、棒の影が最も長くなる冬至をまず起点と定め、影が最も短くなる夏至との中間点である春分・秋分の正確な位置を表します。
そうしまして、月の気の余りを、太陽の周期の終わりに推し測り、閏月を設け、月の気の余りと季節のずれを調整するであります。
お分かりでしょうか。これで天度の説明は、終わりでございます。
帝曰.
余已聞天度矣.願聞氣數何以合之.
帝曰く。余は天度を已に聞けり。願わくば氣の數を聞かん。何を以てこれに合するや
帝が申された。
余はすで日月の運行法則である天の度を聞いて理解した。願わくば気の数の内容を明らかにして、何を以て天の度に合致させるのかをお聞かせ願いたい。
岐伯曰.
天以六六爲節.地以九九制會.天有十日.日六竟而周甲.甲六復而終歳.三百六十日法也.
岐伯曰く。
天は六六を以て節と爲し、地は九九を以て制會す。天に十日有り。日に六竟して甲を周る。甲六復して歳を終える。三百六十日の法なり。
岐伯は、続けて申された。
天は六六の節をもって説明し、地は九九の基準があることは、すでに申し上げました。
その天について、もう少しご説明いたしますと、天には十干を割り当てました十日がありまして、これに十二支を組み合わせます。
甲(きのえ)と子(ね)の組み合わせから始まり、癸(みずのと)と酉(とり)で十日となります。11日目は、甲(きのえ)と戌(いぬ)で始まりまして、これを6回60日繰り返し終わりますと、61日目からまた甲(きのえ)と子(ね)と始まるのであります。
さらに再びこれが6回周って1年が終わります。これをまとめますと、10×6で60。60×6で360日の法となります。
次は九九の基準についてご説明いたします。
そもそも九と申しますのは、陽数である奇数の最後でありまして、九は物事の有り様が陰陽変化の節目であり、九は最も大きいということを内包しております。
夫自古通天者.生之本.本於陰陽.其氣九州九竅.皆通乎天氣.
夫れ古より天に通ずる者は生の本、陰陽に本づく。其の氣は九州九竅、皆天氣に通ず。
故其生五.其氣三.三而成天.三而成地.三而成人.
三而三之.合則爲九. 九分爲九野.九野爲九藏.
故に其れ五を生じ、其の氣は三。三にして天を成し、三にして地を成し、三にして人を成す。
三 にしてこれを三にし、合して則ち九と爲す。九分かれて九野と爲し、九野は九藏を爲す。
故形藏四.神藏五.合爲九藏.以應之也.
故に形藏は四、神藏は五、合っして九藏を爲し、以てこれに應ずるなり。
さて、太古より天の気に通じているのが、人の生命というものであり、その生命現象の変化は、天の気の陰陽変化にもとづいておこなわれております。
この天の気は、世界の土地の全てである九州と、人体の全ての竅(あな)である九竅と、相通じております。
従いまして、天は五運である木・火・土・金・水を生じまして、五運の変化は、上から下までの天・人・地、すなわち上・中・下という三つの場の変化に現れるのであります。
さらに天の部位の中にも天・地・人の変化がございますので、地と人の部位も同様にして全部合わせますと三×三の九の場の部分において、それぞれ陰陽変化が現れます。
天の気を九分割したものは、九つの領域となりますので、それを人体の九蔵の概念とすることが出来るのであります。
従いまして、人体におきましても、陰である具体的な形を蔵する胃・大腸・小腸・膀胱の四臓と、陽である作用を蔵している肝魂・心神・脾意・肺魄・腎志の五臓を合わせた九蔵もまた、天の気に応じて同じように陰陽の変化が営まれているのであります。
帝曰.余已聞六六九九之會也.夫子言積氣盈閏.願聞何謂氣.請夫子發蒙解惑焉.
帝曰く。余は已に六六九九の會を聞くなり。夫子氣を積みて閏を盈つると言う。願わくば何を氣 と謂うかを聞かん。請う、夫子蒙きを發し惑を解かんことを。
岐伯曰.此上帝所祕.先師傳之也.
岐伯曰く。此れ上帝の祕する所、先師これを傳うなり。
帝曰.請遂聞之.
帝曰く、請う、遂にこれを聞かん。
帝が申された。
余はすでに六六の節と九九の基準の全てを聞いて理解することが出来た。そちは気を積みて閏を盈ることを申したが、願わくば何を気と申すのかを聞かせてもらいたい。どうか心の覆いを発し、狭い範囲の理解しかできていないこの惑を解いて頂きたい。
岐伯が申された。
この事は、天地人の三才を主る上帝の秘伝とされてきたことであり、私の師匠から伝えられたことであります。
帝が申された。
ついにこの事について聞くときが来た。是非お願いしたい。
岐伯曰.
五日謂之候.三候謂之氣.六氣謂之時.四時謂之歳.而各從其主治焉.
岐伯曰く。
五日これを候と謂う。三候これを氣と謂う。六氣これを時と謂う。四時これを歳と謂う。しかして各おの其の主治に從うなり。
五運相襲.而皆之治.終期之日.周而復始.時立氣布.如環無端.候亦同法.
五運相い襲し、しかして皆これを治む。終期の日、周りて復た始まる。時立ちて氣は布き、環の端無きが如く、候も亦た法を同じくす。
故曰.不知年之所加.氣之盛衰.虚實之所起.不可以爲工矣.
故に曰く、年の加うる所、氣の盛衰、虚實の起る所を知らざれば、以て工と爲すべからず。
※原文中の括弧は、全元起本、甲 乙経、太素に従って改めた。
岐伯が申された。
五日、これを候といい、三候十五日を気といい、六気九十日を時といい、四時三百六十日を歳と申しまして、候・気・時・歳それぞれを治める主に従います。
この主は、木火土金水の五運でありまして、この五運が互いに重なり合って、候・気・時・歳の全てを治めるのであります。そして一年の終期の日になると、再び周り始めるのであります。
九十日一時はしっかりとやって来るので十五日一気もぴったりとくっつくように巡ってきます。それはあたかも、端の無い環のようなもので、繰り返し循環するものであります。五日一候も同様です。
ですから、その歳に加わる五運によって、人体の気の盛衰や虚実が起きることを知らないようであっては、医師となることは出来ないのであります。
帝曰.
五運之始.如環無端.其太過不及何如.
帝曰く
五運の始まること、環の端無きが如し。其の太過と不及は何如や。
岐伯曰.
五氣更立.各有所勝.盛虚之變.此其常也.
岐伯曰く
五氣更(こも)ごも立ち、各おの勝つ所有り。盛虚の變、此れ其の常なり。
黄帝が申された。
すでに、環に端が無いように五運にも始まりが無い事は、理解することができた。 では、その太過と不及とは、どのような状態であるのか。
岐伯が申された。
五運の気は、順次交代してその時節を主ります。また五運五気は勝つ所があると同時に、前の時節の気は衰えるに従って、次の気が段々と盛んとなるのが、自然の常道というものであります。
帝曰.平氣何如. 岐伯曰.無過者也.
帝曰く、平氣とは何如ん。岐伯曰く、過無き者なり。
帝曰.太過不及奈何. 岐伯曰.在經有也. 帝曰.何謂所勝.
帝曰く、太過不及は何んなるや。岐伯曰く、經に在りて有るなり。帝曰く、何を勝つ所と謂うなり。
岐伯曰.
春勝長夏.長夏勝冬.冬勝夏.夏勝秋.秋勝春.所謂得五行時之勝.各以氣命其藏.
岐伯曰く、
春は長夏に勝ち、長夏は冬に勝ち、冬は夏に勝ち、夏は秋に勝ち、秋は春に勝つとは、所謂五行の時の勝を得て、各おの氣を以て其の藏を命ず。
帝が申された。
平気とはどのような状態であろうか。
岐伯が申された。
太過・不及の無い状態の事であります。
帝が申された。
では、その太過と不及の時は、どうするのか。
岐伯が申された。
恐れながら、すでに内経の中に記載されております。
帝が申された。
では、先ほどの勝つ所とは、何を謂わんとしているのか。
岐伯が申された。
すでに「金匱真言論」でご説明申し上げましたが、大切な事でありますので、もう一度ご説明致します。
勝つ所と申しますのは、木尅土でありますから、春は長夏に勝つのであります。
同様に土尅水で長夏は冬に勝ち、水尅火で冬は夏に勝ち、火尅金で夏は秋に勝ち、金尅木で秋は春に勝つということであります。
いわゆる、五行の時節には、その時節を尅する、その勝が存在するということであります。 そして春木は肝、夏火は心、長夏土は脾、秋金は肺、冬水は腎というように、時節の気と人体の各機能とを相応させ、それぞれ命名しておるのでございます。
帝曰.何以知其勝.
帝曰く、何を以て其の勝を知るや。
岐伯曰.
求其至也.皆歸始春.未至而至.此謂太過.則薄所不勝.而乘所勝也.命曰氣淫. 不分邪僻内生.工不能禁.
岐伯曰く。
其の至るを求むや、皆始春に歸す。未だ至らずして至る、此を太過と謂う。則ち勝ざる所に薄(せま)り、しかして乘ずる所に勝つなり。命じて氣淫と曰く。 分たざれば邪僻内に生じ、工も禁ずること能わず。
至而不至.此謂不及.則所勝妄行.而所生受病.所不勝薄之也.命曰氣迫.
至りて至らざる、此を不及と謂う。則ち勝つ所に妄行し、しかして生ずる所に病を受く。勝ざる所これに薄るなり。命じて氣迫と曰く。
所謂求其至者.氣至之時也.謹候其時.氣可與期.失時反候.五治不分.邪僻内生.工不能禁也.
所謂其の至るを求むる者は、氣至の時なり。謹しみて其の時を候い、氣は期と與にすべし。 時を失し候に反し、五治分たざれば、邪僻内に生じ、工禁ずること能わざるなり。
帝が申された。
して、どのようにしてその勝を知るのか。
岐伯が申された。
その時節が至るその時を求めれば、よろしいのであります。 時節は全て始春、つまり立春を基準と致します。
その上で、本来であればまだ先の時節が、早くに来てしまった状態を太過と申しまして、たとえますならば、春木の時期であるのに、夏火の気が盛んとなった状態であります。
このような太過の状態となりますと、勝てないはずの尅して来る相手に逆に迫ったり、勝つべき尅する相手に覆いかぶさり、動きを抑制するようになるのであります。
このように気が限度を超えて乱れてしまった状態を気淫と申すのであります。
気淫の状態になりますと、邪気そのものが本来あるべき場所や動きをしないため、陰陽・表裏・寒熱・虚実といった基本的概念で分かつことが出来なくなるため、いかに腕の良い医師であっても、これをどうすることも出来ないのであります。
反対に、来るべき時期になっても、その時期にふさわしい気がやってこない状態を不及と申します。
同じようにたとえますと、春木の時期であるのに少陽の気が生じないと、木尅土の土気がみだりに行ることとなりまして、春木を生み出す冬水の気が土尅水で過剰に尅される結果、病を受ける事になります。
さらに春木の気は、金尅木の秋金が迫るようになりますので、これを気迫と申すのであります。いわゆる、時節が至ったのかどうかを知るには、自分の肌身で気の至るのを感じるのであります。
謹んで自分の気を静め、今この時を候えば、今の時節にふさわしい気が、やってくるかやってこないかは自然と分かるものであります。
もし時節に大過・不及があったり、自分が候って感じた気と違っておりますと、自然界を治めている五運を本来の基準で分かつことが出来なくなります。
そうなりますと本来あるべき場所や動きをしない邪気がまた体内に生じる事となりまして、やはりいかに腕の良い医師であっても、これをどうすることも出来ないのであります。
※僻 本筋から外れた、場所が中央から外れている、妥当でない禁 とどめる とめる
淫 節度を越えてみだれる
帝曰.有不襲乎.
帝曰く、襲わざること有りや。
岐伯曰.
蒼天之氣.不得無常也.
岐伯曰く。
蒼天の氣、常無きを得ざるなり。
氣之不襲.是謂非常.非常則變矣.
氣これ襲わず、是を非常と謂う。非常なれば則ち變ずるなり。
帝が申された。
五運の気が次々と順を追ってやって来ないことはあるのだろか。
岐伯が申された。
天を支配している気は、常道を無くすことはあり得ません。従いまして、もしも五運の気が常道を外れましたら、これを非常と申しまして、あらゆるものが乱れる事になります。
帝曰.非常而變奈何.
帝曰く。非常にして變ずるは、いかん。
岐伯曰.變至則病.所勝則微.所不勝則甚.因而重感於邪則死矣.故非其時則微.當其時則甚也.
岐伯曰く、變至れば則ち病む。勝つ所なれば則ち微。勝たざる所なれば則ち甚だし。因りて邪に 重感すれば則ち死す。故に其の時に非らざれば則ち微。其の時に當れば則ち甚しきなり。
帝曰善.余聞氣合而有形.因變以正名.天地之運.陰陽之化.其於萬物.孰少孰多.可得聞乎.
帝曰く善し。余は聞くに氣合して形有り。變に因りて以て名を正だす。天地の運、陰陽の化、其 の萬物におけるや、孰れか少なく孰れか多きや。聞くを得べきか。
帝が申された。常道を外れ、乱れてしまうとは、どのようであるのか。
岐伯が申された。
変が至りますと、人体の気もまた常道を失い、病となってしまいます。
たとえますと、春木の「生」の時期に、尅し勝つ所の長夏土の湿気が盛んとなりますと、病は軽微ですみますが、尅され勝てない所の秋金の粛殺の気、燥気を受けますと病は甚だしくなるのであります。この上更に、重ねて邪気を感受するようなことがありますと、死に至ります。
したがいまして、本来の今の季節に、尅す時期の気が現れますと病は軽微でありますが、尅される時期の気が現れますと甚だしくなるのでございます。
帝が申された。
よし、よかろう。余は、陰陽の二気が合わさって形ができ、その陰陽変化のその時々の姿・形にきちんとした名をつけて認識すると聞いている。
天地の運行と、それによって起きる陰陽の変化と、そのどちらの影響が大きく、また小さいのかを聞かせてもらいたいのであるが。
岐伯曰.悉哉問也.天至廣不可度.地至大不可量.大神靈問.請陳其方.
岐伯曰く、悉びらかなる問なるかな。天は至廣にして度るべからず。地は至大にして量るべからず。大神靈の問い、請う、其の方を陳べん。
草生五色.五色之變.不可勝視.草生五味.五味之美.不可勝極.嗜欲不同.各有所通.
草は五色を生じ、五色の變、勝げて視るべからず。草は五味を生ず。五味の美、勝げて極むべからず。嗜欲は同じからず、各おの通ずる所有り。
天食人以五氣.地食人以五味.五氣入鼻.藏於心肺.上使五色脩明.音聲能彰.
天は人を食しむるに五氣を以てし.地は人を食わしむるに五味を以てす。五氣鼻に入り、心肺に藏す。上は五色をして脩明なさしめ、音聲は能く彰ならしむる。
五味入口.藏於腸胃.味有所藏.以養五氣.氣和而生.津液相成.神乃自生.
五味口に入り、腸胃に藏す。味に藏する所有り。以て五氣を養う。氣和して生じ、津液相成れば、神は乃ち自ずと生ず。
岐伯が申された。
なんとつまびらかな問であらせますやら。
天は至広でありまして、これを度(はか)ることはできません。地もまた至大ですので、これもまた量ることはできないものであります。
ですので、帝の問であります天地の運行とそれに伴う陰陽変化の影響もまた、どちらの影響が多い少ないなどと、判断することはできないのであります。
しかしまことに恐れながら、生まれながらにして神霊といわれた帝の問でありますから、私の認識の及ぶ範囲で陳べさせて頂きます。
草の色は、青・赤・黄・白・黒の五色の組み合わせで生じております。
この五色の組み合わせによって出来上がった色は様々で、単にこれが青、これが赤と指し示すことはできないものであります。
同様に草の味は、酸・苦・甘・辛・鹹(かん)の五味の組み合わせを生じております。
この五味の組み合わせは、美妙な味わいを醸し出しますが、これが最高の美味であると極めることはできないのであります。なぜならば、人それぞれによって嗜好が異なるからであります。
しかしながら、自然界の五色・五味それぞれは、人体に通じ入るところがあります。
天は、木・火・土・金・水、つまり風・熱・湿・燥・寒の五気で人を養い、地は、酸・苦・甘・辛・鹹の五味で人を養います。
天の五気は、鼻から入りまして心肺に蔵されまして、人体の上部では、目には五色が清まってはっきりとさせ、音声も目立つようにはっきりとさせるのであります。
地の五味は、口から入りまして腸胃に蔵されます。味には、蔵されるところがありまして、それによって五臓の魂・神・意・魄・志の五気は養われるのであります。
そして天地の気が調和することで津液が生じ、津液とそれらが相互に作用して生命は自ずと育って行くのであります。
帝曰.藏象何如.
帝曰く、藏象はいかん。
岐伯曰.
心者.生之本.神之變也.其華在面.其充在血脉.爲陽中之太陽.通於夏氣.
岐伯曰く。
心なる者は、生の本、神の變なり。其の華は面に在り、其の充は血脉に在りて、陽中の少陰(太陰)と爲す。夏氣に通ず。
肺者.氣之本.魄之處也.其華在毛.其充在皮.爲陽中之少陰(太陰).通於秋氣.
肺なる者は、氣の本、魄の處なり。其の華は毛に在り。其の充は皮に在りて、陽中の太陰を爲す。秋氣に通ず。
腎者.主蟄封藏之本.精之處也.其華在髮.其充在骨.爲陰中之太陰(少陰).通於冬氣.
腎なる者は蟄を主り、封藏の本、精の處なり。其の華は髮に在り。其の充は骨に在りて、陰中の太陰(少陰)と爲す。冬氣に通ず。
肝者.罷極之本.魂之居也.其華在爪.其充在筋.以生血氣.其味酸.其色蒼.此爲陰中(陽中)之少陽.通於春氣.
肝なる者は、罷極の本、魂の居なり。其の華は爪に在り、其の充は筋に在り、以て血氣を生ず。其の味は酸、其の色は蒼、此れ陰中(陽中)の少陽と爲す。春氣に通ず。
脾胃大腸小腸三焦膀胱者.倉廩之本.營之居也.名曰器.能化糟粕.轉味而入出者也.
脾胃大腸小腸三焦膀胱なる者は、倉廩の本、營の居なり。名づけて器と曰く。能く糟粕を化し、味を轉じて出入する者なり。
其華在脣四白.其充在肌.其味甘.其色黄.此至陰之類.通於土氣.
其の華は脣四白に在り。其の充は肌に在り。其の味は甘、其の色は黄、此れ至陰の類なりて、土氣に通ず。
凡十一藏.取決於膽也.
凡そ十一藏、決を膽に取るなり。
帝が申された。
臓気の状態が体表に現れる『臓象』はどのようであるのか。
岐伯が申された。
心というものは生命活動の根源でありまして、それは心の動きに従って様々に変化致します。 その神の状態は、顔面の色艶や表情に現れ、その充実度は血脈に現れます。
心は膈より上に位置しますので陽中の太陽でありまして、夏気の「長」と相応しております。
肺は、呼吸を通して天の気に通じております。呼吸が停止致しますと直ちに生命活動も停止致しますので、気の根源であります。そして人体の五感を主る魄が居るところであります。
その魄の状態は、体表の毛の立ち方や密度に現れ、その充実度は皮膚の色艶に現れます。肺は、膈より上に位置しますので陽中の少陰でありまして、秋気の「収」と相応しております。
腎は、精気を深くしまいこみ、固く封印する五臓の固摂の根源でありまして、人体の物質の根源である精を蔵するところであります。
その精の状態は、髪の色艶や太さ・密度に現れ、その充実度は骨に現れます。腎の臓は、膈より下に位置しますので、陰中の太陰でありまして、冬気の「蔵」と相応しております。
肝は、弛緩と緊張という陰陽転化の働きの根源でありまして、潜在意識・無意識であります魂が居るところであります。
その魂の状態は、骨の延長であります爪の色艶や厚さ、強さに現れまして、その充実度は筋力やその機能に現れます。また草木が成長するように、血気をのびやかに生じさせます。
陰陽応象大論ですでに述べましたが、酸味は肝に入ってこれを養い、その色は青であります。 肝の蔵は、膈より下に位置して陰中の少陽でありまして、春気の「生」に相応しております。
脾胃・大腸・小腸・三焦・膀胱の各臓腑の機能をひとつとして捉えますと、飲食物の倉庫のようであり、営血を生み出すところであります。したがいまして、ものを入れる器ともいわれます。
これらの各臓腑は、飲食物を営気と残渣物である糟粕(そうはく)とに分け、五味を各臓にめぐらせ、飲食物を入れたり糟粕を排泄させるのであります。
これらの状態は、唇の周囲に現れ、その充実度は肌の色艶や弾力に現れるものであります。 甘味は脾に入ってこれを養い、その色は黄であります。これらは至陰の類でありまして、長夏の「化」、土気に相応しているのであります。
そして胆の腑は、霊蘭秘典論で述べましたように、「中正の官」でありますので、十一臓の協調は、胆の指示・調整・決定に従って行われるのであります。
故
人迎一盛.病在少陽.二盛病在太陽.三盛病在陽明.四盛已上爲格陽.
故に
人迎一盛なれば、病少陽に在り。二盛なれば病太陽に在り。三盛なれば病陽明に在り。四盛已上(いじょう)を格陽と爲す。
寸口一盛.病在厥陰.二盛病在少陰.三盛病在太陰.四盛已上爲關陰.
寸口一盛なれば病厥陰に在り。二盛なれば病少陰に在り。三盛なれば病太陰に在り。四盛なれば已上を關陰と爲す。
人迎與寸口倶盛.四倍已上爲關格.關格之脉贏.不能極於天地之精氣.則死矣.
人迎と寸口倶に盛なること、四倍已上を關格と爲す。關格の脉贏(み)ちて、天地の精氣極まる こと能わざれば、則ち死す。
これまで述べてきたことをまとめ、応用いたしますと、一般的に天の気の現れである人迎の脈と、地の気の現れである寸口の脈を比較して診断の目安とすることができます。
人迎脈が一盛ですと病は少陽にあり、二盛ですと病は太陽にあり、三盛ですと病は陽明にあります。四盛以上でありますと、陽気が盛んに過ぎて陰気との交流が出来なくなります。これを格陽と申します。
寸口脈が一盛ですと病は厥陰にあり、二盛ですと病は少陰にあり、三盛ですと太陰にあります。四盛以上でありますと、陰気が出入りする門が閉じられ、陽気と交流できなくなってしまい ます。これを関陰と申します。
さらに人迎と寸口が共に盛んで、それが平常の四倍以上でありますと、陰気が閉ざされた関、陽気が陰を拒む格。いわゆる関格という状態になります。
この関格になりますと、陰陽が離決し、陰脉と陽脉が互いに交流せずにあふれてしまい、天地の精気をすみずみまで行きわたらせることができなくなりますので、当然死に至るのであります。
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