これまで、五行論の相生・相剋関係について、簡単に説明してきました。
五行論の成り立ちから考えて、五行を機械的・法則的に用いるのは誤りであると僕は考えています。
もう一度別の例をあげると、木=春、火=夏、土=長夏、金=秋、水=冬と順番に季節と関連づけられています。
この長夏というのは梅雨に似た湿気の多い季節で、日本では、夏の前にやって来ます。ですのでこれを普遍的な法則としてしては扱えないはずです。
しかしながら、五臓の概念は五行論から発想されたのは間違いないであろうと推測しているので捨て去る訳にはいかないのです。
つまりまず、認識すべき対象が在り、その認識の方法として五行が用いられたのではないかと。
したがって五行論から論をはずして、五行=五つの要素、カテゴリーとしてそもそも用いられたのだとすると、五行の用い方は自ずと決まってきます。五行論の法則性をはずして考えればよいのですから。
ここから、筆者の妄想です。
五行の成り立ちを想像すると、五つの要素、木・火・土・金・水のイメージと、自然界の気の変化とを先ず重ねたのではないかと思います。
単に事象の変化ではなく、もっとダイナミックな、立体的な捉え方をしていたのではないか。
当ブログ内の黄帝内経・素問<四気調神大論>で示していますように、四季=四気のイメージに合うカテゴリーに分類したのだろうと考えます。
そして四季の移ろう場として大地・土=脾の五つに分類して人体を認識しようとしたのであろう。
土を各季節の間にある土用をまとめて一季節とする考えも、捨てがたいものがありますが、筆者はこれを排します。
上図をもう一度ご覧ください。これを前後・上下・左右(東西南北・上下)の空間として捉えると、自然界とそれにリンクする人体の気の方向性が見えてきませんでしょうか。
これを捉える事が出来ると、難解といわれている脈診その他の切診で、人体の気の偏在を、文字通り手に取るように掴むことができます。しかもタイムリーに。
ちなみに、東洋医学の臓は、身体に現れる現象を五つのカテゴリーにまとめたもので、実態が無く機能だけがあり、臓の図もその機能のイメージに合うように描かれた臓象学が基盤に在るのですね。
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