大きくは天地陰陽の気の変化を述べ、その変化の法則を人体の気の変化に当てはめて認識する。
これを天人合一とも天人相応哲学と称する。
本文では、具体的にその応用例を説いているが、これを暗記しようとするのではなく、変化の法則をイメージで理解することが肝要です。
原 文 意 訳
陰である寒気は、下に降りて凝り固まるので目に見える濁を生じる。
陽である熱気は、上に昇って拡がって行くものであるから、目に見えない澄んだ清を生じる。
本来昇るべき清気が昇らず、下に留まれば猛々しく動の性質である陽気は、出口を肛門に求めて下痢を起こすのである。
この場合、熱気が下るのであるから便の臭いはきつく、肛門も熱く感じるのである。
また、本来降りるべき濁気が降りず、上に留まればおとなしく静の性格である陰気は、動くことが出来ないので全身の気が停滞し、胸が詰まったかのようになり、さらにお腹も膨れて張って来るのである。
上から降りて来ることが出来ないので、下から上に昇ることも出来ないからである。
これら相反する陰陽の働きが、本来の動きをし法則に従っておれば順であるので病とならないのである。
ところが本来の動きが出来なくなり、この法則に適っていなければ逆であるので病となるのである。
要するに、自然の法則に従っているか、逆らっているか。こんな単純なことで病気になるかどうかが決まるのである。
天は清陽が昇った無形の場であり、地は濁陰が集まった有形の場である。同じことを繰り返し述べるのは、これが重要であるからだ。
まずは誰にでも分かるように、大自然を大雑把に捉えてみよう。
濁なる地気から生じた清陽の気は、天の気の作用が極まってくる兆しとして雲となり、天の気が極まれば物質化して雨となって濁陰なる大地に下るのである。
雨は天から降りて来るといっても、元々は地気が極まって上昇したものである。
その地気が昇って姿を現す天の雲は、天気の働きによるのである。
このように陰陽・清濁は、天地の間を姿を変えながら生々流転するのである。
どうだろう、簡単な理論だ。これを小自然である人体に応用して説いてみる。
清陽は、上に昇るのであるから人体の天である頭部の耳目口鼻の孔より出入りし、濁陰は下降するのであるから人体の地である尿道と肛門の穴より出て行くのである。
飲食物に含まれる清陽の気は、摂取すると体表に赴き、皮膚より発して全身を陽気で包み、飲食物に含まれる濁陰の気は、栄養物としてすばやく五臓に入るのである。
さらに清陽の気は、手足を充実させて飲食その他の労働を可能にし、濁陰の気は、六腑の消化作用を行う上での物質的基盤になるのである。
どうだろう、お分かりかな?
万事このように、大自然の気の動きに照らし合わせて人体の気の変化を捉えて行くのである。
原文と読み下し
寒氣生濁.熱氣生清.清氣在下.則生飧泄.濁氣在上.則生䐜脹.此陰陽反作.病之逆從也.
寒氣は濁を生じ、熱氣は清を生ず。
清氣下に在れば則ち飧泄を生じ、濁氣上に在れば則ち䐜脹(しんちょう)を生ず。
此れ陰陽反作。病の逆從なり。
故清陽爲天.濁陰爲地.地氣上爲雲.天氣下爲雨.雨出地氣.雲出天氣.
故に清陽は天と爲し、濁陰は地と爲す。
地氣は上りて雲と爲し、天氣は下りて雨と爲す。
雨は地氣より出で、雲は天氣より出ず。
故清陽出上竅.濁陰出下竅.清陽發腠理.濁陰走五藏.清陽實四支.濁陰歸六府.
故に清陽は上竅に出で、濁陰は下竅に出ず。清陽は腠理に發し、濁陰は五藏に走る。
清陽は四支を實し、濁陰は六府に歸す。
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