本篇、生気通天論の生気とは、人間の元気の別称である。この元気は、
自然界と同じ原理で運動変化する天人合一(てんじんごういつ)で
あると同時に、天の気の支配を受ける天人相応(てんじんそうおう)
の思想を説いた内容となっている。
もう少し平たく広く解釈すると、自然と人間は本来一体のものであり、
自然界が荒れると人間もその影響を受けて様々な異常が起こり、人
間が荒れると自然界も荒れるという思想である。
人間が不健康なでたらめな生活をすれば、生活の場である自然
環境が汚れ乱れると、その影響がさらにまた人間に帰ってくる。
小さく見れば、不健康な生活をし、自分の部屋を汚し乱してい
ると、部屋という環境の気を受けて、その部屋の主人がさらに不
健康になってしまうのと同じことである。
要は、大きいか小さいかだけの話である。
自分自身を理解するポイントは、自分自身の心と身体の、「いまここ」
に生きているこの感覚で、素直に自然界をしっかりと観察することで深
まります。
慌ただしい毎日だからこそ呼吸に意識を向け、瞑想を通じてじっ
くりと自分の心の移ろいと身体の感覚に焦点を合わせる時間を設け
ることが、現代人にはとても大切です。
この篇では、下図のように自然界を天・人・地の3つに大きく分けて認識
する三才思想に少しだけ触れています。
人体もまた、同じように天=胸郭部、人=肋骨弓からおへそまで、地=おへそから下半身の三部に分けてその気の状態を伺います。
詳しくは後々出て参りますので、ここでは概略のみと致します。
原 文 意 訳
黄帝が以下のようにおっしゃる。 太古から人の生命の根本は、天の陰陽の変化にある。
天と地の間は、東西南北の四方と上下の合わせて6つの空間である。
この空間を満たしている気は、この地の九州(当時の国)、九竅(きゅうきょう=耳・目・鼻・口・前陰・後陰の穴)、五臓、十二の関節など、ことごとく天の気に通じているのである。(一体なのである。)
天の陰陽の変化は、天地の間に、万物の変化として生・長・化・収・蔵の5つの気の働きを生じ、天気と地気の交流の間に、我々人間の住んでいる世界があり、天気・人気・地気の三つの場を生みだしているのである。(三才思想)
このことを良く理解せずに、自然の法則を度々違えると、自然界の気
が邪気となって人を傷害するのである。これが与えられた生命を全うす
るか否かの根本のところである。
青い空がどこまでも清浄であれば、人の気もまた天に通じているのだから、人間の心や気持ちも穏やかに爽快に過ごすことが出来る。
このような清浄な天の気と人間の心が一体であれば、人を侵そうとする邪気が存在していても、人に付け入ることが出来ないものである。 これは、自然の四季に適った生活と心持で過ごしていればこそのことである。
だから聖人と呼ばれるような人物は、天の気と一体となることを専一にして、体験を伴った智恵を自分のものとすることができたのである。
もし、これに反して天の気と一体になることが出来なくなると、外界との連絡通路である耳・目・鼻・口・前陰・後陰などの九つの穴に異常が現れ、肌肉の汗腺は閉じてしまい、気が出入りすることが出来なくなってしまい病も現れるのである。 その上外邪から身を守る衛気も、その働きを全うすることが出来なくなり、様々な病に罹るようになるのである。
外から邪気に侵された病のように見えても、実は自ら生気を傷って気を弱め、自ら病を招いているのである。
原文と読み下し
黄帝曰.
夫自古通天者.生之本.本於陰陽.
天地之間.六合之内.其氣九州.九竅.五藏.十二節.皆通乎天氣.其生五.
其氣三.數犯此者.則邪氣傷人.此壽命之本也.
黄帝曰く、
夫れ古より天に通じる者、生の本、陰陽に本ずく。
天地の間、六合の内、其の氣は九州、九竅、五藏、十二節、皆天氣に通ず。其れ
五を生じ.其の氣は三。數々此を犯す者は則ち邪氣人を傷る。此れ壽命の本なり。
蒼天之氣清淨.則志意治.順之則陽氣固.雖有賊邪.弗能害也.此因時之序.
故聖人傳(専)精神.服天氣.而通神明.
失之則内閉九竅.外壅肌肉.衞氣散解.此謂自傷氣之削也.
蒼天の氣、清淨なれば則ち志意治まる。これに順ずれば則ち陽氣固し。賊邪有り
といえども、害すること能わざるなり。此れ時の序に因る。
故に聖人精神を傳え(専らにし)、天氣を服し、而して神明に通ず。
これを失すれば則ち内は九竅閉じ、外は肌肉壅がり、衞氣は散解す。此れ自ずと
傷りて氣これを削ると謂うなり。
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