さて、いよいよ上古天真論3段目、最後の部分に差し掛かって参りました。
この部分は、当時の宗教が反映されているのですが、現代の道教とは違って老子・荘子、神仙思想が色濃く反映されています。
老子は、天地陰陽の法則=道に法った生き方、無為自然を説き、荘子は何ものにもとらわれない無為の世界に遊ぶことを説く。
神仙は、超人的な能力を持ち、俗を離れあの世とこの世を自由に行き来しながら無窮に生きている存在のことである、ちなみに神仙思想の源流は現在の北朝鮮付近だと推測されている。
これらの基本的な考え方からは、まず自然の法則に適った飲食・起き伏し・精神状態の在り方がもっとも大切であり、そのことにより、腎の臓の精が充実させると、いつまでも若さを保つことが出来るということを導き出して説いています。
実際に読んでもらうと、現実味のないおとぎ話のようにも思えます。
仙人が本当に存在したかどうかはともかくとして、自然と人間の関係、人としての心の在り様は、現代人である私たちに投げかける何かがあります。
その「何か」を、これを読んで下さる皆様の中に、見つけて頂けたらと願っております。
さて、当時の道教を意識しながら意訳します。
黄帝がおっしゃった。私は太古の昔に天・人・地の法則を体得し、欠けたところが全くない真人と呼ばれる人か存在したと聞き及んでいる。
天地陰陽の法則を身につけ、自然界の精気を取り入れながら、様々な環境に惑わされること無く自分の心身を保っており、皮膚はピンと張りつめて筋肉と一体であった。
従って、その寿命は天地の時間の流れをおおうほど広く長く、生命の終わりということがなかった程である。それは真人が、大自然の法則を意識しないくらい一体となっていたからである。
もう少し時代が下がった中古の時代になると、至人という人が存在していた。真っ直ぐな偽りのない良心的な心を持った存在であり、しかもどっしりとして自然の法則と一体であった。陰陽の変化や四季の変化にもよく順応して和合していた。
世俗の煩わしさからは距離を取り、心を煩わせることなく精を温存させ、生命力が輝くような生き方をしていた。天地大自然の中を気の向くまま自由に行き来し、しかも通常見聞き出来ない遠くの四方八方のことも知ることが出来た。
万事このようであり、生命力が盛んで丈夫であったため、寿命も長かった。この類の存在もまた、真人に属する。
その次には、聖人と呼ばれる人がおり、天地の気の交流が調和されたところに腰を落ち着けて生活していた。しかも時に人を害することがある、八方から吹いてくる風の意味を理解していた。
好きこのみなどの欲は、世間一般の習わしに適合するようにつとめ、ことさらそれを避けるようなことはせず、怒りや恨みで心の中がいっぱいになるようなこともなかった。
さらにその行いも、特別なことをしないで世間並みに行動することを望み、服装も行いも世間に自慢したりひけらかすようなことを欲しなかった。
肉体的には過労になるような労働をせず、精神的には心を串刺しにするような痛烈な痛みを伴う考えや憂いなどの煩わしさも無く、心を平静にして楽観的で愉快な気持ちで行動するようにつとめていた。
努力して手にするのではなく、自然に手に入るものを素直に素朴に喜んでいた。
努力して手にするのではなく、自然に手に入るものを素直に素朴に喜んでいた。
だから肉体的には傷れることもなく、精神もバラバラで散漫になるということも無かったので、百歳まで生きることが出来たのである。
さらに時代が下ると、賢人と呼ばれる人がおり、やはり天地陰陽の法則に順応しようと、太陽と月や星の運行とその満ち欠けなどを観察して自然界の気の変化を捉え、四季などの自然界の気の変化に順応して逆らわないようにしていた。
まさに上古の真人・至人を手本として、自然の法則と一体となるようにつとめた結果、長く生きることはできた。が、限界があった。
原文と読み下し
黄帝曰.余聞上古有眞人者.提挈天地.把握陰陽.呼吸精氣.獨立守神.
肌肉若一.故能壽敝天地.無有終時.此其道生.
黄帝曰く。余は聞くに上古に眞人なる者有りと。天地を提挈(ていけい)し、
陰陽を把握し、精氣を呼吸し、獨り立ちて神を守る。
肌肉は一の若し。故に能く壽(よわい)天地を敝(おお)い、終わる時有ること無し。
此れ其の道に生ればなり。
中古之時.有至人者.淳徳全道.和於陰陽.調於四時.去世離俗.積精全神.
游行天地之間.視聽八達之外.此蓋益其壽命.而強者也.亦歸於眞人.
中古の時、至人なる者有り。淳徳にして道を全うし、陰陽に和し四時に調(ととの)う。
世を去りて俗を離れ、
精を積みて神を全うす。天地の間を游行し、八達の外を視聽す。
此れ蓋(け)だし其の壽命を.益して強き者なるも、また眞人に歸す。
其次有聖人者.處天地之和.從八風之理.適嗜欲於世俗之間.無恚嗔之心.
行不欲離於世.被服章.擧不欲觀於俗.外不勞形於事.内無思想之患.
以恬愉爲務.以自得爲功.形體不敝.精神不散.亦可以百數.
其の次に聖人なる者あり。天地の和に處し、八風の理に従い、嗜欲は世俗の間に適い、
恚嗔(けいしん)の心なく、行は世を離れるを欲せず、服章を被り、
擧は俗に観られるを欲せず、外は事に形を労せず、内に思想の患い無く、
恬愉(てんゆ)を以て務となし、自ずと得るを以て功となし、
形體は敝(やぶ)れず、精神は散ぜずもまた百を以て數うべし。
其次有賢人者.法則天地.象似日月.辯列星辰.逆從陰陽.分別四時.
將從上古.合同於道.亦可使益壽.而有極時.
其の次に賢人なる者あり。法は天地に則り、象は日月に似(かたど)り、
星辰を辯列(べんれつ)し、陰陽に逆從し、四時を分別し、將(まさに)に上古に從って、
道に合同せんとするも、また壽(よわい)を益さしめ、しかして極る時有り。
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