鍼灸医学の懐

示從容論篇第七十六.

本編は、従容(しょうよう)たることの重要性を説いているが、同時に少数鍼の根拠ともなりえる内容である。

筆者は、父親から多く鍼を用いるものは下手くそであり、上手なものはホンの少数しか鍼を用いないものだと伝えられた。

さて、従容とはいったいどのようなことなのであろうか。

容とは、入れ物であり器(うつわ)であり、姿形は定まっている。

従容を単純に読めば、容(器ーうつわ)に従うことであるが、さてこの容とは一体なんであるのか。

さてまた従容という言葉は、「従容として死に赴く」などのように、ゆったりとして落ち着いているさまとして形容詞的な用い方をされている。

いずれ人が死に赴くのは、定まった宇宙の法則である。

それを自ら悟り受け入れることができれば、心はくつろいぎ落ち着いて、死のまどろみを満喫できるのであろう。

さてさて、読み方は自由でありますが、鍼を行う上で定まった宇宙の法則とは如何に。

すでにこの篇に至るまでの随所に、繰り返し記載されていると筆者は考えていますが、この篇に及んで臨床例を用いて従容の重要性を説いていると思われます。

さて、従容に至る道とは、これいかに!

さて、読者諸氏はどのように読み、感じ取られますでしょうか。

         原 文 意 訳

黄帝はくつろぎながらゆったりと座り、雷公をお召しになって問うて申された。

 汝は、医術を授かり医学書も読んでおるのでおるようである。さすれば様々な学問を広く観てそれを比較して分類し、道理に合して通じていよう。そこで余にそちの得意なところを申してみよ。

 五臓六腑、胆・胃・大小腸・脾・女子胞・膀胱、脳髄・涕唾などは、哭泣悲哀などの七情の変動によって水が従い行く所である。これらは全ての人に生じる生理現象であるが、治療を誤るところでもある。もしそちがこれらのことを明確にすることができれば万全であろうが、もしこのことを知らないようであれば、世の怨みを受けることになろうぞ。

 雷公が申された。

 臣は請い求めて経脉の上下篇を何度も読誦いたしました。それぞれに異なるものを別ち、分類したものを比較しておりますが、未だ完璧という訳ではありません。またどうしてこれを明確にすることができましょうや。

 黄帝が申された。

 試しにそちが理解している五臓の病変、六腑の和せざるところや、鍼石の不適、毒藥が適している場合や湯液の滋味など、つぶさにそれらを申してみよ。その上でまだ分からないことがあれば、応えてやるので問うてみよ。

 雷公が申された。

 肝虚・腎虚脾虚というのは、いずれも身体が重く煩悶いたします。そこで毒薬を服用させてみたり鍼灸・砭石・湯液と様々に治療したのですが、治ったり治らなかったりするのですが、その理由をお聞かせくださいませ。

 黄帝が申された。
 そちは長くこの医学に携わっておきながら、どうしてそのような稚劣な問いを発するのか。余がそちにこのような問いをしたのが間違いであったか。

 余はそちにもっと奥深いことを問うているのだがのう。それを上下篇の内容そのままに答えるとはなんとしたことか。
 それ脾虚の脈は浮で肺の脈に似て、腎の病は小浮にして脾の脈に似ており、肝の病は急沈にして散なるは腎の脈に似ておるものじゃ。これらは工(医師)が皆判断に迷うところである。
 であるが、普段のとおりゆったりと落ち着いてよくよく判断すれば、明確に弁別することができるものだ。

 脾・肝・腎の三臓は、五行的には土・木・水であり、ともに膈下にあってそれぞれの気は互いに入り混じるものである。このようなことは、幼い子供でも知っていることであるのに、そちがこれを問うとはいかなることか。

 雷公が申された。
 ここに頭痛して筋が引きつり骨は重く、怯えているようで少気し、しかもしゃっくりやゲップを生じて腹満し、時に驚いて臥することを嗜なまないという人があります。
 この病は、何の臓から発したものでありましょうや。

 脈を切しますと、浮にして弦。さらに切しますと石堅でありますが、私にはその答えが見出せません。ですから改めて三臓についてお聞きするために質問をいたした次第で、脾・肝・腎の三蔵を比較して鑑別したいと思っております。

 帝が申された。
 それはこれまで学んできたことを背景にゆったりと構え、そしてじっくりと判断することが大事なのじゃ。
 ざっくりと太極を申せば、年長者は腑に、年少者は経に、年壯者は臓にそれぞれ目をつけて診るのじゃ。なぜならば年長者は気が衰え排泄に問題が現れ、年少のものは気が盛んで動き回るからである。さらに年壯のものは、その充実に頼んで無理をして精を費やし、疲れ切ってしまう傾向にあるからである。

 今のそちには、八風の邪が鬱して発熱する外因、五臓の衰えと邪の伝変の内因とを弁別する認識が欠けておるのう。
 よいか、つまり浮にして弦なるは腎の不足であり、沈にして石なるは腎気が内に籠って行らないからである。
 また怯えたかのように呼吸が弱くせわしいのは水道が通じないために津液も行らず、形気ともに消耗してしまったためである。
 さらに咳嗽してモヤモヤとして苦しむのは、腎気が上逆して心肺を犯すからである。
 人間ひとりの気の病というものは、このように腎ひとつの臓が病んだだけで、このように多彩な病態を現してくるものなのじゃ。
 それを三臓それぞれが倶に病んでいるというのは誤りであり、この医学の法に外れたことである。

 雷公が申された。
 ここにひとりの病人がおりまして、その症状は四肢が無力でだるく、喘ぎながら咳をしまして血を下しています。
 愚でありますわたくしが診察しましたところ、肺が傷れていると判断いたしました。

 脈を取りますと、浮大にして緊(虚?)でありましたので、確信が持てないので治療を行いませんでした。
 ところが粗工(下手な医者)が砭石(石メス)を用いて切開して瀉血したところ、大量の出血の後、出血が治まるのと同時に患者の身は軽くなり、病も治ってしまいました。これはいったいどういったことが起きたのでございましょう。

 帝が申された。
 そちがよく治療できることも、数多くの学問にも通じておることは、すでに余の知るところである。しかしながらこの病に対しては失したな。
 粗工が病を治すことができたのは、たとえば鳥が空高く飛んで、大きな天にたまたま衝きあたったもので、山勘が偶然当たっただけの話である。

 そもそも聖人の治療というものは、自然界の法則に順い、その運行度数を守り、様々な症例を比較・分析して分類し、暗くてはっきりとしない病態を明確にするものである。
 であるからして、身体上部に症状が現れておれば、身体下部の状態はどうなっているのか等、症状部位だけでなく他所にまでその診察の目は及ぶのである。であるからして、必ずしも経典に記されている通りのことを行うわけではないのである。

 今そちが申した、脉浮大にして虚(緊?)というのは、脾気が絶して外に津液を行らすことができない状態を現わしている。胃の気は去ってしまい脾の外腑である陽明に津液が留まるのである。
 これらは、心・肺の二火である陽臓が、肝・脾・腎の三水である陰臓に勝てない姿である。そのために脉は乱れ一定しないのである。

 四肢が無力でだるくなるのは、脾気が虚してその精気が行らないためである。
 喘ぎながら咳をするのは、水気が陽明に結集しているためである。
 血を泄するのは、脉流が急すぎて脈中に溢れて行く所が無いために決壊して出血するからである。

 もしこれらの症候を診て肺が傷れていると判断するならば、従容たる視点を失い狂っているからである。過去の症例も参考にして比較・分析をしないのであれば、はっきりと明確に病態をとらえることなどできるはずがないではないか。

 もし肺が傷れているのであれば、脾気は散じて守ることができず、胃の気は濁氣にまみれて清ならず、肺の経気は臓腑の使いとしての機能を果たせなくなるはずじゃ。
 そうなれば真気を蓄えている臓は決壊し、他の経脉までもが絶して五臓の真気もまた漏れ出てしまい、鼻から出血するか、さもなくば嘔するであろう。

 この傷肺と傷脾の二者は、相類することができない別ものである。
 たとえて申せば、天に形が無く、地には理が無い曖昧模糊(混沌)とした状態のようである。はっきりと明暗を分ける白と黒の遠いことよ。
 であるがそちのことは、吾の過失である。
 余はそちがすでにこれらのことを知っていると思っていたので、そちに告げなかったのである。
 症例から明らかに病理を引いて理法を理解できるようになれば、理法によって気血を導く道が見えてくるようになる。

 さすれば落ち着いてゆったりと構える従容となるなるものじゃ。
 さすればそちの論もまた診経と名づけることができよう。これを道に至ると言うのである。

         原文と読み下し

黄帝燕坐.召雷公而問之曰.汝受術誦書者.若能覽觀雜學.及於比類.通合道理.爲余言子所長.五藏六府.膽胃大小腸脾胞膀胱.腦髓涕唾.哭泣悲哀.水所從行.此皆人之所生.治之過失.子務明之.可以十全.即不能知.爲世所怨.
黄帝燕坐し、雷公を召してこれに問うて曰く。汝術を受け書を誦するは、若し能く雜學を覽觀し、比類に及び道理に通合すれば、余が爲に子の長ずる所を言え。五藏六府、膽胃大小腸脾胞膀胱、腦髓涕唾、哭泣悲哀、水の從い行く所、此れ皆人の生ずる所、治の過失なり。子務めてこれを明らかにすれば、以て十全たるべし。即ち知ること能わざれば、世の怨む所と爲す。

雷公曰.臣請誦脉經上下篇.甚衆多矣.別異比類.猶未能以十全.又安足以明之.
雷公曰く。臣請う。脉經の上下篇を誦するも、甚だ衆多なり。異を別ち類を比するも、猶お未だ以て十全なること能わず。又安(いずく)んぞ以てこれを明らかしむるに足らんや。

帝曰.子別試通五藏之過.六府之所不和.鍼石之敗.毒藥所宜.湯液滋味.具言其状.悉言以對.請問不知.
帝曰く。子、五臓の過、六府の和せざる所に通じ、鍼石の敗、毒藥の宜しき所、湯液の滋味を試みに別ち、具(つぶさ)その状を言え。悉く言わば以て對(こた)えん。請う知らざるを問え。

雷公曰.肝虚腎虚脾虚.皆令人體重煩寃.當投毒藥刺灸砭石湯液.或已或不已.願聞其解.
雷公曰く。肝虚腎虚脾虚、皆人をして體重く煩寃せしむ。當に毒藥を投じて刺灸し、砭石湯液するも、或いは已え或いは已えず。願わくばその解を聞かん。

帝曰.公何年之長而問之少.余眞問以自謬也.吾問子窈冥.子言上下篇以對.何也.夫脾虚浮似肺.腎小浮似脾.肝急沈散似腎.此皆工之所時亂也.然從容得之.若夫三藏.土木水參居.此童子之所知.問之何也.
帝曰く。公何んぞ年の長にして問の少なきや。余眞に問いて以て自ら謬れり。吾子に窈冥(ようめい)を問う。子は上下篇を言いて以て對するは何なるや。夫れ脾虚は浮にして肺に似、腎は小浮にして脾に似、肝は急沈にして散なるは腎に似る。此れ皆工の時に亂れる所なり。然るに從容としてこれを得、若し夫れ三藏の土木水參わり居れば、此れ童子の知る所。これを問うは何ぞや。

雷公曰.於此有人.頭痛筋攣骨重.怯然少氣.噦噫腹滿.時驚不嗜臥.此何藏之發也.脉浮而弦.切之石堅.不知其解.復問所以三藏者.以知其比類也.
雷公曰く。此れに人有り。頭痛、筋攣、骨重く、怯然(きょぜん)として少氣し、噦噫、腹滿、時に驚き嗜臥せず。此れ何(いず)れの藏の發するや。脉浮にして弦。これを切して石堅。その解を知らず。復た三臓なる所以を問いて、以てその比類を知らんとす。

帝曰.夫從容之謂也.夫年長則求之於府.年少則求之於經.年壯則求之於藏.今子所言.皆失八風菀熟.五藏消爍.傳邪相受.夫浮而弦者.是腎不足也.沈而石者.是腎氣内著也.怯然少氣者.是水道不行.形氣消索也.欬嗽煩寃者.是腎氣之逆也.一人之氣.病在一藏也.若言三藏倶行.不在法也.
帝曰く。夫れ從容これを謂うなり。夫れ年長なれば則ちこれを府に求め、年少なれば則ちこれを經に求め、年壯なれば則ちこれを藏に求む。今子の言う所、皆八風菀熟、五藏消爍、傳邪相い受けることを失す。夫れ浮にして弦なる者は、是れ腎不足なり。沈にして石なる者は、是れ腎氣内に著くなり。怯然として少氣する者は、是れ水道行らず、形氣は消索するなり。欬嗽し煩寃(はんえん)する者は、是れ腎氣の逆なり。一人の氣の病は一藏に在るなり。若し三藏倶に行くと言うは、法に在らざるなり。

雷公曰.於此有人.四支解墮.喘欬血泄.而愚診之.以爲傷肺.切脉浮大而緊.愚不敢治.粗工下砭石.病愈.多出血.血止身輕.此何物也.
雷公曰く。此に人有り。四支解墮し喘欬して血泄す。しかして愚これを診して、以て傷肺と爲す。脉を切するに浮大にして緊。愚敢えて治せず。粗工砭石を下して病愈ゆ。多く血を出だし、血止みて身輕し。此れ何する物や。

帝曰.
子所能治.知亦衆多.與此病失矣.
譬以鴻飛.亦沖於天.
夫聖人之治病.循法守度.援物比類.化之冥冥.循上及下.何必守經.
今夫脉浮大虚者.是脾氣之外絶.去胃外歸陽明也.夫二火不勝三水.是以脉亂而無常也.
帝曰く。
子の能く治する所、亦た衆多と知るも、此の病とは失するなり。
譬(たと)うるに、鴻の飛びて亦た天に沖するを以てなり。
夫れ聖人の病を治するは、法に循(したが)い度を守り、物を援(ひ)きて比類し、冥冥これを化し、上に循(したが)いて下に及ぶ。何ぞ必ずしも經を守らん。
今夫れ脉浮大にして虚なる者は、是れ脾氣の外絶し、胃を去りて外陽明に歸するなり。夫れ二火は三水に勝たず。是れを以て脉亂れて常無きなり。

四支解墮.此脾精之不行也.
喘欬者.是水氣并陽明也.
血泄者.脉急.血無所行也.若夫以爲傷肺者.由失以狂也.不引比類.是知不明也.
四支解墮するは、此れ脾精の行らざるなり。
喘欬する者は、是れ水氣陽明に并(あわ)するなり。
血泄す者は、脉急にして、血の行く所無きなり。若し夫れ以て傷肺と爲す者は、失して以て狂するに由るなり。比類を引かず。是れ知の明らかならざるなり。

夫傷肺者.脾氣不守.胃氣不清.經氣不爲使.眞藏壞決.經脉傍絶.五藏漏泄.不衄則嘔.此二者.不相類也.
譬如天之無形.地之無理.白與黒.相去遠矣.
是失吾過矣.
以子知之.故不告子.明引比類.從容是以名曰診輕.是謂至道也.
夫れ肺を傷る者は、脾氣守らず、胃氣清ならず、經氣使と爲さず。眞藏壞決し、經脉傍絶し、五藏漏泄し、衄せざれば則ち嘔す。此の二者は、相い類せざるなり。
譬えば天の形無く、地の理無きが如し。白と黒、相い去ること遠きなり。
是の失は吾の過なり。
子これを知るを以ての故に子に告げず。明らかに比類を引くに、從容たれば是れを以て名づけて診輕と曰く。是れ至道と謂うなり。

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