春の季節、すなわち立春から立夏までの3カ月を発陳(はっちん)と称します。
この季節はまるで種から芽が出るように、気が徐々に発生し始める季節であります。私たちの感覚としては、冬の寒気が緩み、物事が始まる予感を感じさせ、何かしら自然と悦びを感じる時期です。
自然界の天地の気の交流も次第に活発になり始め、動植物をはじめ、すべてのものが息を吹き返したかのように動き始める季節でもあります。
この時期の日の出・日の入りと自然界の気に応じて、人もまた早寝早起きをして庭に出て、歩幅を広くしてゆったりと歩くのが良いのです。
身体的には、髪の毛を解きほぐし、服装もゆったりとして身体を緩めるようにするのが自然に適っています。
精神的には、今年はこれをやろう・あれもやろうと、やる気を起こし、何事も生まれよう・伸ばそうとするのがよろしいのです。
しかしながら、どうせ無理だから、無駄だからやめておこうなどと制限を加えるような心持は、春の気にそぐわないのであります。
またやる気を育てようとするのは良いのですが、考えすぎてやる気が失せるようなことは避けるべきです。
人に対しても、褒めたり励ましたりするのはよろしいのですが、虐げたり罰したりすることのないように心掛けるのがよろしいのであります。
春の気というものは、「生まれる」「始まる」という気が自然界に満ち溢れますから、自然のきに応じて人もまた、「伸ばそう」「育てよう」とする春の気に応じた心持と所作が道に法った過ごし方なのであります。
もしこのような自然界の気の法則に逆らう生活を送っていますと、肝の臓を傷ることになります。
そうしますと、夏は炎暑の季節であるのにもかかわらず、身体が冷えっぽくなり、やる気の起きないなんともつらい状態になってしまいます。
それはまるで、若葉を十分に出せない樹木が、夏になって枝を伸ばすことが出来ない姿の様です。
春の過ごし方の誤りは、ひと季節遅れて夏に現れてくるので、この事を良く理解しておくのがよろしいのです。
ですから、春にしっかりと若葉を生じていなければ、せっかく成長させ、盛んにしようとする夏季の気を受けることが出来ないのであります。
残念なことに、夏の伸ばそう、伸ばそうとする気を受け取れる人は少ないのです。
夏の季節、すなわち立夏から立秋までの3カ月を蕃秀(ばんしゅう)と称します。
この季節は芽が上に勢いよく伸び、枝もまた張り出そうとする姿に象徴されます。
また自然界も、天地・陰陽・上下の気の交流が最も盛んな季節です。
この時期は芽を出した草木が、あっという間に青々として勢いよく伸びる様子や、鳥や虫たちが盛んに飛び交う季節です。
人もまた、こころを遠く馳せ、海や山に出かけて盛んに動きたくなる気持ちになるものです。
この時期の日の出・日の入りと自然界の気に応じて、少し遅く寝て早く起き、日中の陽の長さや暑さを嫌うことのないようにするのがよろしいのであります。
夏期は炎暑でありますので、気が激しく上に昇ります。
ですから人間は、激しく怒って気が昇りすぎないように気を付けるのがよろしいのです。
花々が勢いよく十分に成長して花を咲かせるように、人も同じように活発に動いて汗と共に気を適度に発散させるのが良しいのであります。
精神的には、恋人が外で待っているかのように、心を弾ませて外に出かけるようにし、内にこもることのないように心掛けます。
このような夏季の気の状態に応じて、成長・発散を意識した生活・心持が、自然の理に適ったことなのであります。
この自然界の法則に逆らえば、心の臓を傷ることになります。
秋になりますと次第に寒気が忍び寄って参りますので、人体の肌表も次第に閉じるようになり、発熱と悪寒が交互に現れる痎瘧(がいぎゃく)という病になってしまいます。
このような状態に陥りますと、実を結ばせようとする秋季の気を受けることが出来なくなってしまいます。
そしてそのまま冬になりますと、さらにいろんな病気に罹るようになってしまいます。
このような人は、多いのであります。
秋の季節、すなわち立秋から立冬までの3カ月を容平(ようへい)と称します。
この季節は成長が止まり、物事の形が定まってくる時期です。
私たちの実生活では、収穫の豊かさを感じる時期であり、冬眠をひかえた動物は身を太らせ、冬に備える時期でもあります。
自然界の空は高く感じるようになり、次第に寒気が生じ始めますので、私たちの感覚としては徐々に引き締まって来るかのようです。
また、空気も澄み渡り、紅葉が始まる大地は、はっきりとして爽やかに感じます。
この秋から夜が次第に長くなり、昼は短くなってくるので、それに合わせて早寝・早起きするよう心がけます。
朝は鶏が日の出を告げるころに起き始めるようにし、心は、あれこれ思い煩うことなく気を鎮めて緩め、安定させるように努めます。、
このように処しますと、万物を堅く収縮させ、枯れ死させる刑罰のような秋季の気とバランスを取ることが出来るのであります。
つまり夕方になってから、あれもしなくては、これもしなくてはといったように、心を忙しく散乱させるのではなく、秋の引き締まる気に応じて気ぜわしく動き回らないようにするのがこの時期の心得なのであります。
そのようにして、発散と収縮のバランスを上手に取り、心や気持ちをあまり外側に向け過ぎないように心掛けることが大切なのであります。
このように過ごせば、呼吸も健やかで、心身共に安定して参ります。
これが万事・萬物が、引き締まり物の形が定まる秋の収気に応じる過ごし方であります。
そうしますと、人の元気も散じてしまうこともありませんので、健やかに冬を迎えることが出来るのであります。
この秋の気に無頓着でありますと、肺の臓を傷ってしまいます。
そうなると冬になってから、未消化の下痢を起こす飡泄(そんせつ)という病になってしまいます。
下痢が続きますと、体内にしっかりと精気を保持できませんので、冬の寒気に傷害されやすくなってしまいます。
ですから冬に、しっかりと精気を充実できる人は、少ないのです。
冬の季節、すなわち立冬から立春までの3ヶ月を閉藏(へいぞう)と称します。
自然界は寒気が支配するので、水は凍りつき大地には亀裂が生じます。
この季節はすべてのものが活動を低下させる時期で、虫もカエルも熊も土中に潜り、秋に収穫した穀物は蔵にしまい込まれ、草木もまた葉を落とし静かに春を待つ季節です。
このような時期は、激しく動いて発汗するなどして、身体の陽気を乱してはなりません。
この時期は、早寝遅起きし、必ず日の出を迎えてから起床するようにいたします。
精神的には、積極的・能動的になるよりも、むしろ思ったり考えたりしたことを隠したりしまい込むような密かな心持ちで、望み事や欲しいものがあっても、既に望み事が叶っている・手に入っているかのように満ち足りた気持ちで過ごすのがよいのであります。
このように内部に秘めるような、内に向って懐で温めるかのような心持で過ごすのが理に適っています。
肉体的には、寒さを避けて保温に心掛け、労働や運動などによって皮膚から汗を発し、陽気を奪う(漏らす)ようなことがあってはならないのであります。
つまり、種のように堅く殻を閉じ、春の発芽に備えて精気を内部に充実させるのが、冬季の過ごし方の法則なのであります。
このような冬の気に反しますと、腎の臓を傷ってしまいます。
そなってしまいますと、種の中がスカスカで発芽することができないように、春になりますと人もまた手足が冷える上に、萎えてしまったり軟弱で力が入らず、場合によっては自由に歩けなくなるなる痿厥(いけつ)という病になってしまうのです。
このようになってしまうと、春の生じさせよう、伸ばそうと吐する春の気を受け取ることが出来なくなってしまいます。このような人は、多いのであります。
天の気というものは、清きもので、はっきりとしないものを明確にさせる働きがあり、しかもその働きを自ら誇示することがない天徳を備えております。
天はその徳をあからさまにせず、内に秘めているからこそ我々人間は生きていることが出来るのであります。
もし天がこのような徳を明らかにして誇示するようなことがあれば、昼間の懐中電灯の灯りのように、太陽も月も明るく輝くことはできません。
人間の元気もまた同じことであります。
自然の理に反して、自分の存在をあからさまに誇示するために、働き過ぎたり自己主張が過ぎると、徳を失い同時に内をしっかりと守るべき元気も散じて失ってしまうのであります。
そうしますと、人体の弱りにつけ込むかのように外邪が人を犯し、目鼻耳口前陰後陰などの人体の穴が詰まるようになります。
そうしますと出るべき陽気は体内に詰まってしまい、陰気はそのはっきりとした働きが阻まれて、発揮出来なくなってしまいます。
天地の雲露は、雲が真に澄みきっていなければ、下って透明な露を大地に結ぶことが出来ません。
天地の交流が確かなもので無くなれば、万物の生命もその施しを受けることが出来なくなり、名のある大木までもが枯れてしまうということになります。人もまた同様であります。
風も起こらず自然界の気が停滞して動かない、季節外れの風雨、白露も下らない、そうなってしまうと大地の万物は枯れて固くなり花も咲かず、豊かに茂ることが出来なくなってしまいます。
そして季節外れの風がしばしば吹き、台風のような暴風が頻繁に起こり、四季の変化に異常をきたすなど、自然界の法則が乱れてしまうと、元々元気でこれからまだまだ生きることが出来る人であってもすべて死に絶えてしまいます。
人は、自然界の法則に支配されているからであります。
このような異常気象であっても、聖人は自然の理に通じているので、その変化の兆しをとらえて身を処したので、身体に奇病を生じることはありませんでした。
聖人はまた、自然の道理にしたがって身を処したので、生気が尽きるということも無かったのであります。
このように、春の「生」の気に背きますと少陽の気も生じませんので、肝の蔵気はこもってしまい病変を起こします。
また夏の「長」の気に背きますと、太陽の気も伸びませんので、心の蔵気はうつろとなり、神気もぼんやりとします。
秋の「収」の気に背きますと、太陰の気も収めることが出来ませんので、肺の蔵気は溢れて熱化し、焦げたかのようにいっぱいいっぱいに膨れ上がるかのようになります。
冬の「蔵」の気に背きますと、少陰の気も蔵することが出来ませんので、腎の蔵気は他臓と孤立して正常に機能しなくなります。
四季の陽気・陰気の変化は、万物が成長・枯れ死する原因の根本となります。
人間もまた、同様なのであります。
聖人は春夏に活動的・開放的になり、秋冬には消極的・収束的になる。
このように身を処している理由は、天地陰陽の法則に従おうとするからです。
自然界の万物と共に、成・長・収・蔵の気の変化の規律と同調し、意識せずとも自然と一体となっていたのであります。
このような陰陽の法則に逆らうと、身体の最も大切なところを打ち破ってしまい、精と神は粉々になってしまいます。
従って、四季の陽気・陰気の変化は、万物の始まりと終わり・人間が生存している条件の根本法則であります。
この根本法則に逆らうようでは、当然災害も起きようし、従えば激しい病気も起こらないのです。
聖人はいちいち考えて行動するのではなく、気の赴くままに行動しても、自然の理にかなっています。
これを道を得るというのであります。
道なるものは、聖人は意識さえもせず、当然のようにこれを行いますが、愚かな者は陰陽の変化についていけないので、背反することになってしまうのである。
陰陽の法則に従えば生き、これに逆らえば死を招く。これに従えば世も平和でよく治まり、これに逆らえば乱れのであります。
自然の理に背くと、体表と体内の気が交流しなくなる、内格という状態になってしまいます。
このような理由から聖人は、すでに病気になってしまってから治療しようとするのではなく、まだ病気になる前に兆しを観て治めるものであります。
すぐれた政治家が、世がすでに乱れてしまってから治めるのではなく、乱れる前に未然にこれを察知して治めることが出来るのも、この法則に従うからであります。
これを人に当てはめますと、すでに病になってしまってから薬を処方し、治療を施すのは、世が乱れてしまってからこれを平定しようとするようなものです。
このあまりに遅く愚かであることを例えるなら、あたかも喉がカラカラに乾いてしまってから井戸を掘るようなものであり、また戦争が始まってしまってから、あわてて兵器を作ろうとするようなものであります。
なんと! それではもう手遅れではないか!
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